その生い立ちについて、そして、心に燃え残る夢について。
誰も耳を傾ける者はいない。
その声を忠実に聞こうとしていたのは、彼の目の前にある古ぼけた一台のテープレコーダーだけだった。
雪深い会津の地に生まれ、鉄道屋の父とともに全国を転々とした少年時代。
やがて、あの戦争が始まり、多くの友人たちが若い命を散らして行った。
病室の窓から差し込む木立の枝の影が枕元に淡い陰影を落とす。
静かな声が誰も居ない部屋にこだまする。
戦いが終わり、故郷に戻った彼は妻を娶り、二人の子供をもうけた。
それは、毎日が爪に灯を点すような暮らしだったが、それでも十分に幸せだった。
彼は、テープレコーダーに向かって語り続ける。
自分がどれだけ家族を愛し、どれだけ自分に偽りの無い人生を送ってきたのかを。
ある冬の寒い日、家が火事に見舞われた。
隣家からのもらい火だったが、家は全焼、降りしきる雪の中で一家は途方に暮れた。
娘は、ふた月後に高校の受験を控えていた。
「こんなことは、長い人生の中でなんでもないことだ。いつかきっと笑い話になるさ…。」
彼は、そう家族を励まして、こぶしを握り締めた。
またある日、高校生になっていた息子が学校をやめたいと言って来た。
我が侭な態度に彼は激怒し、言い争いになった。
息子が苦労して行くのが、目に見えるように浮かぶ…。
それでも息子は決心を変えなかった。
「これからはコンピュータの時代になる。今の学校の学問では、やがて時代に置いて行かれる。」
それが息子の言い分だった。
真剣なまなざしに心が動いた。
「決して後悔はするな。」
むしろ背中を押してやることにした…。
彼は、黙々と吹き込み続ける。
懐かしい思い出について。大切な人を失った悲しみについて。
夢、希望、祈り、絶望…そして、かけがえのないものたち。
肉体を苛む病の苦しみは、やがて人間として当たり前の感情さえも奪うだろう。
今、やらなければ… そうなる前に。
人間としての尊厳を持ち続けていられるうちに。
人としての果てしない道のりについて…
その喜びと哀しみと、いまだに燃え残る夢たちについて…
明日、手術によって永遠に声を失う彼は、
しわ枯れた最後の声を絞り出しながら、
残していく者たちへ贈る言葉を吹き込み続けた。
…そうして残されていた1本のテープ。
天国のお義父さん、かけがえのない贈り物に感謝します。
愛と勇気をありがとう、そして安らかに。
(家内の父、鈴木正章 1998年8月10日永眠)