3月18日(土)は何の日だったでしょうか? と言っても、一般の方に分かるはずもないですが、この日は僕が3年間にわたり取り組んで来た「福島県近代医学教育150年顕彰記念事業」の最後の大事業、後藤新平伯の胸像除幕式が挙行されたのであります。
Storyスナップでは、まだソコまで進んでいないのでネタバレになりますが、このモニュメントの”原型”段階で、遠く富山県高岡市まで足を運び、確認されたのが以下の写真。
後藤新平伯胸像の原型確認
こっそりと頭部をいじって来たので、この原型から造られるブロンズ像は僕の魂も入っているという訳です。エヘン。 ←(エヘンじゃないだろ!)
で、これを福島県産安達太良御影石の台座に据えて、学内に設置している模様が以下の写真。
設置工事中
場所は福島県立医大のメイン・エントランスの横。結果的に実に素晴らしい場所が確保でき、竹之下理事長にもチョット褒められてしまいました。エヘン。
除幕式には、ここまで色々とお世話になりながら進めてきた奥州市の後藤新平記念館長を来賓でお招きし、昨年創設された医学部同窓会の「後藤新平奨励賞」の第一号受賞者(卒業生の代表)となった若き女医さんにも特別参加していただきました。
さて、準備は万端。あとは当日の除幕式を待つばかり・・
ところがっ!! m9っ`Д´)
迎えた当日の朝・・
雪やん! ヾ( ̄0 ̄; )ノ
うむむむむ・・参列者の多くは学内・市内の関係者ですが、記念館長は奥州市から、奨励賞の女医さんは会津から、それぞれ雪深い地域からの参加。
途中何事もなければよいが・・。
で、実際、お二人の到着はギリギリながらも開始時刻に間に合い、何とか予定通りの11時開式となったのであります。(司会の僕は心中穏やかで無かったですが。)
粛々と式は進み、いよいよメインの『序幕の儀』でございます。
序幕の儀
「それでは・・これから掛け声を・・あ、ちょっと待った!!」とか、ボケをかましたいのを必死にこらえ、シナリオ通りの「さあ、どうぞ!!」と・・
幕が曳けました~! ٩(ˊᗜˋ*)و
うんヨカッタ。ぢつにヨカッタ。(うっうっ・・)
ちなみに、この胸像の横にある「碑文板」は、僕が原案を作成して竹之下理事長がさらに格調高く修文した名文です。
最後に、それもご紹介いたしましょう。
「一に人 二に人 三に人」 後藤新平
明治四年(一八七一年)九月、白河仮病院に白河医術講議所が設置された。これが福島県下、明治期になって初の近代医学に基づく医師養成機関であり、福島県の近代医学教育はここから始まった。この講義所の設置をもって福島県立医科大学の淵源とする。
白河医術講議所はその後、須賀川医学所、須賀川医学校と発展し、東北地方の近代医学教育の黎明期をも支えてきたのである。そして、明治七年(一八七三年)、この学び舎には後藤新平の姿があった。
後藤新平は修学後、内務省に勤務し、日清戦争帰還兵二十三万人の大規模検疫の実施や、台湾総督府民政局長として台湾大学の前身となる台湾医学校を設立するなど、行政において医学の知識と経験を如何なく発揮しただけでなく、関東大震災の際には、内務大臣兼帝都復興院総裁として復興を牽引し、今の東京の礎を築いた。
淵源より百五十年を経た今、福島県立医科大学は、後藤の後を追うように、医学の発展と医療人の育成に邁進し、東日本大震災からの復興支援を歴史的使命とし、持てる力を結集している。
後藤は、人生の最後に残す最善は「人」であると説いたと伝えられる。この碑の前に立つ時、我々は後藤の後を継ぐ「人」となるべく研鑽を重ねているかと、後藤の後に続く「人」を育てているかと、常に自問しなければならない。
令和五年(二〇二三年)三月一日
福島県近代医学百五十年顕彰記念事業実行委員会
胸像寄贈 福島県立医科大学医学部同窓会
胸像制作 有限会社田畑功彫刻研究所 台座設計・施工 株式会社フクイシ
銘板揮毫 竹之下誠一 |
どうです、グッとくるでしょう?
あ~よかった。これで150年顕彰記念事業が全う出来て、晴れて3月末には仕事から解放されて自由の身に♪
ぶわっはっはっは~
「ということなんだよ、ケイコ」
「なんだ、結局、オトーサンの名前はどこにも出てこないのね」
それを言っちゃぁオシマイだよ! Σ( ̄ロ ̄lll)
(ちゃんちゃん!)
(ToT) (ToT) (ToT) (ToT) (ToT)
<<THE END>>
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