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| ◆ 駐在員生活の思い出/再び駐在生活の始まり
それまでの課長代理、主任などの役職はなくなり、リーダーとチームメンバーだけの構成となった。
また社内では、役職名ではなく部長や取締役もさんづけで呼ぶようにとかよくわからない運動も始まった。
この年の株主総会はしゃんしゃんで20分で終わる。
8月、金融公庫で借りた住宅ローンを会社の近くにあった東京相和銀行(現東京スター銀行)に借り換え手続き。年間返済額を150万円から100万円ほどに減らすことができた。 8月30日、この年も国税局の調査が入る。今回は国際専門官とやらが来て、いろいろと細かい質問をされ、対応に四苦八苦していたが・・・ 9月14日、突然部長(ジャカルタ時代の所長が1994年本社に上がってきて国際営業部長になっていた)から、フィリピンに現地法人を立ち上げるので、元JKUCAT所長とマニラに赴任してくれと! しかも20日には出発するように、と!!
マニラは1986年の三井物産マニラ支店長誘拐事件や、犯罪者が国外脱出してマニラのスモーキーマウンテンに潜伏するなど、治安が非常に悪いイメージがあり、実際に当社の出張者もレストランで銃を突きつけられて金を取られたり、ホテルでパスポートを置き引きされたりと物騒な事件が頻発していた。
また深田祐介の「炎熱商人」で描かれたように反日感情が強いと思われ、まったく気が進まなかったが、今回はJKUCAT所長の強い要望もあって断る選択肢はなかった・・・
1995年9月20日、早朝家を出て宮原駅でたいたい、子どもたちに送られ成田へ。 長女が高校受験の塾通い中、長男の12歳の誕生日の前日、マニラに向け飛び立つ。 当時はマニラ空港も世界最悪空港と呼ばれるほどで、空港職員の汚職が横行し設備も劣悪だった。(↓)
とりあえず事務所、職員宿舎が決まるまでの拠点となるNEW WORLD HOTELにチェックイン。
このあと25年続く3度目の駐在生活の始まりだった。 スモーキーマウンテンは長くフィリピンの貧困の象徴とされ、それを国家の恥と認識したフィリピン政府は、ぼくが駐在していた1995年11月に住民を退去させ、強制撤去に踏み切った。(↓)
#233送ります。 暑くなってきて最近は頭がぼーっとしててやばい感じ。 ボケ防止の脳トレで新しい歌を覚えようとしてるけど、 歌詞もメロディもなかなか覚えられない💦
(2026.7.26up)
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