その人の風格、その人の境地から生まれる芸術として俳句は随一なものだと思う。俳句はあたまだけでは出来ない、才だけでは出来ない、上手さがあるだけ、巧みさがあるだけの句は一時の喝采は博し得ようとも、やがて厭かれてしまう。作者の全人全心がにじみ出ているような句、若くは作者の「わたくし」がすっかり消えているような句(この両極は一つである)にして、初めて俳句としての力が出る、小さい形に籠められた大きな味が出るのである。
芭蕉の境地、一茶の風格に就いては今更いうまでもない。然し、それから後、俳句と言うものが一概に趣味的な、低徊的なものになって、作者の人間、その気稟というものの出ているような作は殆どなかった。所謂「俳趣味」という既成の見方からすれば、俳句らしくなくとも、その作者の持つ自然の真純さが出ていれば、それこそ本当の俳句だ、と私は思う。そして、そのような本当の俳句を故尾崎放哉君に見出したのである。
・・・荻原井泉水編『増補版 尾崎放哉集ー大空(たいくう)』まえがきより
(以下、尾崎放哉の句集「大空」より
◆入れ物がない両手でうける
◆淋しいからだから爪がのび出す
◆母のない児の父であったよ
◆こんな好い月を一人で見て寝る
◆手紙つきし頃ならん宿の灯の見ゆ
◆なんと丸い月が出たよ窓
◆切られる花を病人見てゐる
◆せきをしてもひとり
◆つくづく淋しい我が影よ動かしてみる
◆月夜戻り来て長い手紙を書き出す
◆障子開けておく海も暮れきる |