1868年10月8日、長州藩を中心とした官軍が会津市中に攻め入り、会津藩は籠城戦に入る。鶴ヶ城内の軍陣病院で傷病兵看護の指揮を執っていた西洋医学所頭取松本良順ら旧江戸幕府の5名の医師は、会津藩の名医古川春英に後事を託して出城。
城に参集したのは夫や父を戦で亡くした女たち6百余名。会津藩の精鋭らはまだ前線に散っており、城中に残されていたのは老兵と傷病兵、そして入城してきた婦女子たち。それから落城までの一か月、女たちの闘いが始まった。
◆「大砲の弾は丸い、子供の頭ぐらいの大きさでございますが、それが破裂せずに畳の上に落ちますと、プスプス音がして燃え出します。もしや城中から火事でも出しては大変ですから、婦人たちは、蒲団や着物を水で濡らして、裸足で屋根の上へ馳けあがり、それで火を消し止めるのでございます。」(山川操子の回顧録)
冷やす前に焼夷弾が破裂し、多くの女性たちが絶命した。
◆「私ども初め、松平家の家臣が会津城に立て籠もりました時は、一同潔く主君のために戦って、一思ひに討ち死にしようと覚悟をしてをったのでございますから、婦人は皆それぞれ拝領の衣類などを着てまゐりました。中には絽の紋つきを着た人もありますし、裾模様を着た人もあります。」(山川操子の回顧録)
女性たちは皆、晴れ着や正装で入場していた。中には血染めの白無垢を着た女性の姿も見られた。
◆「お城のお廊下橋までまゐりますと、入場者が沢山集まってをります門の前には、武士(さむらい)が抜刀で『たとひお女中たりとも卑怯な事は許しませぬぞ』と声高に叫んでをります。いかにも殺気に満ちた有様であり、御婦人などは、白無垢に生々しい血潮の滴ってゐるのを着てをられました。これは多分、家族に卑怯者があって、城中に入って戦ふのは厭だといふのを手に掛けて、その足でまゐられましたのでございませう。」(新島八重の回顧録)
やがて、傷病兵のための医薬品や包帯が底をつき、指揮を執っていた容保の義姉照姫は、自らの着物を裂いて包帯に代えた。
◆武士(もののふ)の猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも(娘子隊中野竹子が出陣に際し薙刀に結んだ覚悟の句)
薙刀の名手中野竹子は、長州・美濃・大垣連合軍との闘いで銃弾に斃れた。
◆なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそ聞け(会津藩家老西郷頼母の妻、千重子の辞世の句)
千重子らは、一族郎党と共に居宅で自刃して果てた。(⇒会津武家屋敷)
なお、新島八重の回顧録に登場する「白無垢の女性」は河原善左衛門の妻あさであったと考えられている。彼女は老母と9歳の娘を連れて城内を目指したが、途中の激しい銃撃に悲観した老母が懐剣で自分の喉を突き、あさに介錯を頼んだ。あさは9歳の娘も敵の手にかかるよりはと考え、そのことを娘に言うと、娘は幼いながらもそれを理解し、正座して目を瞑り両手を合せた。 ・・白無垢の血潮は、泣きながら老母と娘の首を切リ落とした返り血だったのである。 |