ボブ、ディランのノーベル賞の話は「風に吹かれて」しまってどこかに飛んでしまっていたが結局受賞するらしい。
個人的には「ノーベル賞、ボブ、イラン」と言って欲しかった。
ノーベル文学賞があってノーベル美術賞や音楽賞はない。「なーんでか」わからないが、そもそも芸術はこの賞に馴染まないのではないか。
文学は言語なので言葉の違いの難しさがあると思うが、どんな基準で選考されるのか。
選考委員が翻訳で選考しているとしたら翻訳の出来にも左右されるがノーベル翻訳賞はない。
美術や音楽は言葉の壁をこえて世界共通だが今後ノーベル美術賞が新設され、私の水撒きアートがノミネートされたら嬉しくて、みんなで酒で飲ミネート。
いつもの昭和ヤングの懲りない妄想だが、芸術の祭典で各賞を授与すれば「芸術の採点」だし、終わってしまえば「アートの祭り」だ。
いつ頃からか日本各地でビエンナーレ、トリエンナーレなどの横文字を使った芸術祭が行われているが訳の分らぬ現代美術系が多い。
お祭りなので話題性があり人が集まればいいのだが、評論家や文化人がいろいろとゴタクをノタマウ。
「アートは見て感じるもの」と言いながら、長々と意味不明の日本語で説明するのでウンザリする。
外国人の作家を招いて「国際化」として、さらにハクをつける。今でも「舶来上等」で外国のものは何でも有り難く感じる。
あいちトリエンナーレでは文字通り作品の鳥のトリ扱いでミソをつけたが名古屋ミソか。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」だが「現代美術みんなで見ても分らない」で入場料を払えば、それなりに理解しようとして頭が疲れ、思い出に厚いパンフレットを買えば思い出がさら「重いで」になる。
理解できないストレスのために金を使うのは馬鹿げた事だが、とりあえず理解した顔をしないと損した気になる。
芸術も「喜び組」と同じで「視覚的聴覚的快感」がないと楽しめないと思うが、この考えは私的な昭和ヤングの低俗な芸術論か。
アバンギャルドは「前衛」の事だが既に過去のものとなり、今はコンテンポラリーアートやコンセプチュアルアートなど横文字が並ぶ。
昭和風にいえばナウいアートだ。
アバンギャルドはフランス語だが、おばさんが若者風にメイクして今風の服装をまとうのはオバン、ギャルドか。
アートをつければなんでも芸術になり、芸術引っ越しセンターまであるが、頭髪もハゲが進むと仙台弁で、もうアートねいちゃ。
私のブログも現代アートも独りよがり、意味不明でよくわからないが、所詮は作者の自己満足なので他者は満足できなくてもしょうがない。
芸術は嗜好品なので好き嫌いがあって当然でピカソだろうが岡本太郎だろうが、みんなが好きになる必要はない。
「芸術は爆発だ」の岡本太郎の作品に太陽の塔があるが、どうに見ても不機嫌な顔をしており私は視覚的快感を感じない。
公園という公共の場に置く必要性を感じないが、撤去できないなら覆面でも被せれば面白い。
大阪だけにタイガーマスクがいいと思う。
タイガーマスクと同じ覆面レスラーでミルマスカラスというメキシコ出身のレスラーがいて華麗な技で人気があった。
学生の頃に友人とプロレス話題で盛り上がった時、ある同級生がミルマスカラスのことをミスマラカスと勘違いして何度も言っていた。
間違いを指摘しようとも思ったが、その同級生は前にピラニアのことをヘルニアとも言っていた。
←(ぶわっはっはっは!)
気がつかなければ、人はまたミスをヤラカス。真の友人なら正しく指摘しなければならないと反省したが、実際はなかなか難しい。
ちょっとした一言で人間関係が崩れる事もある。
「風に吹かれて」がついに55号を達成した。ゴーゴーゴーで「♪ゴゴゴー、風が泣いている555」だ。
スパイダースだが初恋の思い出はスッパイダースで私の人生はシッパイダースか。
「何でそーなるの」はコント55号だが「何でこーなったの」と思ってみても今更時間は戻せない。
「無駄な抵抗はよせ、君たちはすでに残り時間に包囲されている」
「傘を置きバケツの水も捨てておとなしく余生を送りなさい」
~と若いDJポリスに諭されている私の悪い夢をみた。
(2016.10.31)アンブレラあつし |