10月10日は東京オリンピックの開会式で体育の日になり、それ以前はずっと稲荷神社のお祭りで休日だった。
それが休日を連続させるという有難い法律のおかげで最近は訳が分からない。
休みになれば何でもいいと、いい若けい者は言い訳する。
成人の日や敬老の日もしかりだが毎年変わるし休日に埋もれ単なる三連休になってしまうが三休べーリーマッチと、とりあえず感謝すべきなのか。
10月10日の前日は学校は、お祭りで半ドンになった。
天丼でもカツ丼でもない。半ドンだ。
半ドンいうのはもはや死語だが「昔の土曜日」だ。
「もうひとつの土曜日」は浜田省吾だが土曜日は学校が昼に終わるので浜田正午か。
小五なみのダジャレに自分でもあきれるが反省はしない。
浜省が反省すると浜省反省と面白いが、たぶん受けないと思う。
お祭りは親と一緒にという学校のきまりがあったが当時バス通学だったので半ドンの日には学校帰りにバスターミナルまでは子どもだけで歩けた。
途中に稲荷神社があるのでお祭りに下校途中で道草ができた。
お祭りといえば昔はサーカスがきた。生まれて初めて象や虎を見たのもサーカスだ。
鎖につながれた象や小さい檻に入れられた虎が可哀想に感じた。
今の動物園は園舎も広いし鎖につなぐ事もないが拉致されている事には変わりなく動物にとっては監獄だ。
無実の罪で収監されている。終身刑だ。園舎はあるが恩赦はない。
サーカスではオートバイが球状の金網の中をけたたましく走る。
空中ブランコで人が空に舞う。ピエロがテントの隅でジャグリングの練習をしている。
異次元の夢世界だがあまり近づくとサーカスの人にさらわれるなどと近くの大人から脅される。
サーカスの人はみんな拉致されてきたのかなどと子供心に心配する。
さらわれたらピエロになって玉乗りくらいはできるかななど悪乗りして考えるが不器用なので無理か。
空中ブランコに出る細い体のおネイサンの付き人なら簡単そうだし楽しいか。ふわふわの衣装にさわったりもできるのか。妄想が空中ブランコしている。
ブランコから落ちる夢を見て目が覚めた。
見世物小屋は究極の昭和異次元空間だ。
ダミ声の呼び込みの声が響き、テントの隙間から中の様子が僅かにうかがえる。
好奇心はあったが子供心に、こういうものを見てはいけないという気持ちが働いた。
アコーデオンやバイオリンの楽器を持った傷痍軍人が哀愁を帯びた軍歌を流す。松葉杖で義足や義手の姿の人もいる。白装束で軍隊帽をかぶっている。
前に置かれた空き缶に小銭が投げ込まれている。
立ち止まってよく見ようとするが親に手を強く引かれて、その場から強制移動させられる。
親の話によると傷痍軍人には国からの見舞金や軍人年金があり、公の場での物乞いは違法なのだそうだ。
また偽者もいたらしい。
夜店の厚化粧の、けばい姉さんや入れ墨の怖い兄さん、昭和30年代のお祭りは怪しいワンダーランドだ。
青やピンクのひよこが夜店で売られていた。
親にねだって青いひよこを買ったが次の日の朝には死んでいた。
青の塗料は汗で流れ黄色い地の羽根の色が見える。
ヒヨコの小さな目は閉じられていて安らかな顔をしていた。
庭に穴を掘って埋め小枝を立ててお墓にする。
次の年はヒヨコは買わない。
みどり亀を買うがこれも一週間で死んでしまう。看取り亀だ。
また穴を掘って埋める。供養はするがクヨクヨはしない。
鶴は千年、亀は万年というがヒヨコは一日、亀は一週間の命だった。
命は儚い。あん時の命はアントニオいのちか。
ジャイアント馬場、豊登、吉村道明、大木金太郎、オキシキナ、昭和のプロレスはブラウン管テレビの真空管だ。
そのココロは「妙に熱くなる」。
話が場外乱闘になってしまったのでお祭りのリングに戻す。
お祭りでは山車を子供たちが引くが誰でも山車を引ける訳ではない。
お揃いの法被を着て山車が引けるのは中心部の町内に住んでいる事が条件だ。私は郊外に住んでいたので山車は引けず法被は着れずアンハッピーだった。
差別的だがお祭りの伝統は基本的に差別的区別的だ。氏神様がいて氏子がおり縄張りがある。
最近は少子化で外人部隊がいないと山車が引けない町もあり顔役の紹介があれば部外者でもまざれる事もある。
山車に乗って太鼓を叩いてる子どもが羨ましかった。彼らにとっては晴れ舞台で誇らしげだった。
自分の出生を恨んでもしょうがない。生まれる時に親も場所も選べない。運命は受け入れなければならない。
♪ジャジャジャジャーンは「運命」だ。
学校の音楽室にはベートーベンやモーツアルト、ショパンやハイドン、シューマンなどの肖像画が貼ってあり、名前と顔だけは覚えているがクラシックに、くわしっくはないので、それぞれの人の曲はよく知らない。
音楽の授業はいつもボーッとしていたが音楽鑑賞の授業で真剣に聞いているクラスメイトがいて感心した。
そして鑑賞の感想を難しい言葉でみんなの前で発表したのでさらに驚いた。同じ学年なのに考える事が違い過ぎる。
「ベートーベンの弁当は、おかずはしょっぱい(ショパン)い、しゅうまい(シューマン)で天丼、ハイドン、もっとあると」などと四校時目に夢想してた私だ。
シューマンの夢想曲にトロイメライというのがあるが私は頭がとろいメライで人生にタメライがある。
違いのわかる男は一人コーヒーを飲みながら静かにクラシックを聞いてる。退職後のイメージだったが今の私はほど遠い。
もっと落ち着いてシニアらしく生きよう。
コーヒーの入ったカップの脇にクリップを置き「コーヒーにクリップ」などとつぶやいて一人自嘲するのはやめよう。
シニヤになったからといって簡単にはシニヤしない。という悪いジョークも自重だったが書いてしまったので@のまつりだ。
祭の@はドット疲れる。
(2015.10.11)アンブレラあつし |