「有名」な「女流画家」が少ない訳は、今までの「社会構造」にあると思う。
「教育の機会均等」という言葉があるが、歴史的に長い間、教育の機会や職業の選択、職場での役割は男女間で「均等」ではなく「格差」があった。
「男と女、どっちが有能ですか?」と聞かれても答えがないように、「能力差」は個別にはあると思うが、性という「属性」による能力差は本質的にはない。
各種分野への向き不向きは、男だから女だからという事ではなく、男女関係なく「個人」としてそれぞれにある。
今後、「社会構造」がさらに変化していけば現在の男女格差の統計データとは違った数字が見えてくると思う。
以上、「ツーサンの雑感」への回答だが、「ツーサンの雑感」も「通算287号」でスゴイ。
岸波通信には中学の同級生からの投稿も多いのだが、二組からはツーサンと私だけだ。
二組出身としては一組、三組、四組に負けるわけにはいかない。
特に四組には三県附属中交流会参加をかけたバレーボールで負けた苦い思い出がある。
なんてコドモじみたこと書いたが、ケータイもドコモで、いつまでも昭和のコドモを心にケータイしているボクです。
「芸術、絵画」だが、作品の価値は作者に関係なく作品そのものだ。
鑑賞者の心の琴線にふれる事が芸術性だが、「有名画家」の作品に内心「ガッカ」りしてもイイネと誉めてみたり、絵画を投資と考えて「琴線にふれる作品」より「金銭になる作品」を購入する事は、美術アルアル、アルルの風景だな。
「わだば、ゴッホになる」と言ったのは若き日の棟方志功だが、彼はシコーサクゴを重ねカクゴして芸術の道を選んだエライ人だ。
私は思考も覚悟もできないでヌボーっと生きているが「アール、ヌーボー」という芸術運動があったな。
「女流○○」だが、今の流れだと「女流」も死語になっていくのかもしれない。
「看護婦」が「看護師」、「保母」が「保育士」、「女優」が「俳優」、「家政婦」が「家事代行」と言い換えが進んでいるが、職業だけのことでもない。
「父兄」を「保護者」、「キーマン」を「キーパーソン」と言い換える。言葉の言い換えは「意識改革」にはなる。
男女共同参画法のもとドンドン変わっていく「流行」があるが、簡単には変わらない「不易」なものが世の中の根底にある。
教育界でも児童生徒の名簿を「男女混合」にする「流行」がある。
男女関係なく「並べる」という「流行」だが、実際には使いにくい。
最近の子どもは名前だけでは男女の判断が難しい。結果、名前によっては小さく鉛筆でMやFとメモする。
実は名簿を性別でなく「生年月日」や「あいうえお順」で並べるのも、ある意味「差別」だ。
しかし「区別、差別」は世の中には必要なことで「区別」のない社会は混乱する。
体育の授業で背の順に並ばせるのは「差別」になるという方もいるらしいが、背の順というのは合理性がある。
縦に整列させた時に後ろからでも前の指導者が見える。前に大きい人がいたら前が見えなくなり、それこそ不公平だ。
「少年サンデーや少年マガジン」、「少女フレンドやマーガレット」、「イルカに乗った少年」や「長い髪の少女」、「おれは男だ」や「スチューワーデス物語」などなど昭和は「男と女」の時代だったな。
今は男とか女とかを強調しすぎると性的マイノリティー団体からクレームがつくので要注意だ。
「♪飲み過ぎたのは、あなたのせいね」は「♪男と女のラブゲーム」だが「♪飲み過ぎたのは、昭和のせいね」を言い訳して杯を重ねるオレです。
(2023.3.25)アンブレラあつし |