ハッピーニューイヤー。
今年は丑年、牛なので乳(ニュー)イヤーか。牛はモーとなくので「モーイヤー」だがコロナは「もー嫌ー」だな。
牛が笑って「ウッシッシ」の楽しい1年でありたいが、私のマンネリギャグでは笑えそうもない。
昔から正月はそれだけでメデタイのだが今年はソーでもない。
コロナがモグラのようにアチコチに出るので、日本全国、コロナのモグラたたき状態になっている。
「鰹のタタキ」という料理はあるが、モグラのタタキやタヌキのタタキというジビエ料理はありませんから。
親のカタキは忠義だが、親のタタキは今は体罰になるので注意だ。
「♪母さん、お肩をタタキきましょ」だが、コロナ禍で父さんの会社が大変になると「♪父さん、お肩をタタキましょ」は父さんのリストラを連想する。
なんて、いつものギャグで今年も思いやられるが、人は思いやりが大事だ。
文頭で取り上げた「タタキ」だが、世間は○○タタキでバッシングに溢れている。
社会が閉塞状況になると、寛容さが失われ些細な事でも大きくマスコミが取り上げて、攻撃の的にするのが世の常だ。
ツーカ、マスコミって、元々それをシノギにして稼いでいるのだが、最近はネット社会で、ヤクザなマスコミに加え、素人までタタキアイ活動に参入している。
ウサばらしだが寛容さのない社会は「イカンよう」で、ギスギスして暮らしにくい。
「タタキアイ」から、お互い「タスケアイ」の時代に戻したいが、昔、日本は石油ショックで社会パニックになった。
今は令和のコロナパニックの中にいるが、渦中にいると、どこか慣れてしまっている自分がいる。
「♪ケセラーセラ、なるようなれ」で、時間が解決すると信じ、ジッーと我慢だが、最近のジーさんはジーっと我慢できないで「会食」してしまう。
爺さんに残された人生の時間は余りないので気持ちは私にもよくわかる。
前号で話題にした落語会での「芸術活動」だが、今年はコロナで公民館文化祭や福祉施設での「芸術活動」ができなかった事もあり、東京で実施してみた。
いつもの活動場所は上野公園だが、足立区の舎人は日暮里から電車で20分くらいで、上野からそう遠くもなかった。
屋内だと天候に左右されないし、体を大きく動かす事がないので楽だ。
これからは、「雨にも風にも夏の暑さにも負けて」無理せず芸術活動する方法も工夫しよう。
「♪もう、若くはないと君に言い訳したね」はイチゴ白書だが、人生は言い訳で、私は「いい若けい頃」から言い訳を沢山して生きてきたな。
「言い訳」は自己正当化の方法で、人生の精神安定剤のようなものだ。
私も振り返れば後悔することは山ほどあるが、全て言い訳して自己正当化し、とりあえず安心し満足して生きている。
「♪これじゃ、体にいいわけないよ」「♪わかっちゃいるけど、やめられない」と言い訳し、自己正当化して自己満足する事は古来よりある。
私のオヤジギャグも、ツマラナイとわかっちゃいるけどやめられない。
クレージーキャッツだが、「お呼びじゃない、お呼びじゃないね、これまた失礼しました」の植木等をはじめ他のメンバーも犬塚弘を残して、皆「呼ばれて」そしてシャバから「失礼」してしまった。
自分としては、まだ「お呼びじゃないね」と思っても、「お呼び」は突然にくるので困ったものだが、コロナでは呼ばれたくはない。
最近はコロナで飲み会の「お呼び」も「お呼ばれ」もなくツマラナイが、コロナは「体にいいわけない」だけでなく「心にもいいわけない」な。
早く「♪スイスイ、すだーらだった、スラスラすいすいすい」と自由に動き、自由に会い、自由に飲みたい。
金や時間があっても自由がないのはシンドイって、この歳になって改めて感じたが「♪そのうち、なんとか、なるだろう」と自分に言い聞かす「クレー爺」なボクです。
文頭の挨拶は「ハッピーニューイヤー」と書いたが、谷啓だったら、きっと「賀正」(がっしょ〜ン)と挨拶するな。
(2021.1.2)アンブレラあつし |