吉村昭の随筆集「わたしの流儀」(新潮文庫)に、小説などを書く時にしばしば辞書を引く話がありました。
ノンキは呑気と思ったら暖気だった、消耗の読みはショウコウ、口腔の読みはコウコウ、隧道の読みスイドウと。
「わたしの流儀」(新潮文庫)
エッという感じでしたので、中学高校で使っていた「角川国語辞典」で調べました(雑感 137)。
ノンキと読む暖気が載っていなかっただけで、その他は吉村昭の随筆の通りでした。
でも今は「体力をショウコウ(消耗)した」と言っても通じませんし、吉村昭の小説「高熱隧道」にはズイドウとルビが振ってありました。
「高熱隧道」(新潮文庫)
なおWordではショウコウ→消耗、コウコウ→口腔、スイドウ→隧道といずれも変換できました。
「全然」を角川国語辞典で引きますと、⦅必ず下に打ち消しの語をともなう⦆と書いてあり、私自身もそう習いました。
でもいつの頃からでしょうか、「全然大丈夫」のように「全く、とても、非常に」といった意味で使われるようになりました。
映画「全然大丈夫」
「確信犯」の元々の意味は「政治的・思想的・宗教的な確信に基づいて犯す」ことでしたが、現在では「悪いと知りつつ犯す」ことに使われることが多いようです。
ら抜き言葉に関して国語審議会は合理的な欠落と述べていた記憶しています(雑感 30)。
的を盗むわけではないから「的を得る」は間違い、正しくは「的を射る」と覚えていましたが、最近は「的を得る」も「得る」を「うまく捉える」の意味で使えば誤用ではないようです。
時代と共に言葉は変化しますが、今の女子高校生同士の会話なんかは、私にとってはチンプンカンプンなのでしょうね。
ツーさん【2022.8.22掲載】
葉羽 若者言葉で耳障りなものもあるけど、すぐに消えて行く。言葉も進化論と一緒で「環境に適応」し支持されるモノだけが生き残っていく。そう考えれば「言葉の進化」を否定すべきじゃないんだろうな。