東日本大震災から4年経った3月に、当時は嘱託として研究所勤務でしたが、若い方々相手に「私の3.11」なる話をしました(雑感104)。
震災発生時私は上田工場(長野県上田市)勤務でしたが、上田の辺りは地震が少ないところで震度4は勤務6年目で初めてだったこと。
福島市は震度5強で実家の心配ばかりしていて、実は自宅のある東京練馬も震度5弱と気付いたのは、発生1時間後だったこと。
練馬区光が丘公園
本社に状況連絡(震度4以上の地震発生時には本社に状況報告の義務あり)するにも固定電話は繋がらず、工場長として会社から支給されていた災害時優先携帯電話が威力を発揮したこと。
上田は中部電力管内で原発事故の影響はなかったが、翌週から上田駅(電車通勤でした)は電灯を間引いていて、日本人は自粛が好きなのかと思ったこと。
上田駅改札口
上田は1週間ほどでガソリン供給体制が通常に戻ったので、発生2週間後には福島市の実家に行き、家の中は色々と散乱していたが、男手一つで後片付けは半日ほどだったこと。
福島市の友人との安否確認などのメールのやり取りで、断水などで不自由な生活を強いられる中「避難所の高校体育館でボランティア活動をしています。今まで経験しなかった新しい体験が刺激的です」とのメールがあり、その前向きな姿勢にむしろこちらが力づけられた、という話もしました。
アンブレラあつし(中央)
その友人とはアンブレラあつしさんでした。
ツーさん【2021.7.12掲載】
葉羽 あつしだったのか!? 震災の時はケイコがメニエール病になったり、娘や孫たちを避難させたり、心労でお袋が亡くなったり、親父は寝たきりだったりで、どうしようもなかったなぁ・・。