高校の時は2年の秋まで部活でバレーボールをしていました。
私は補欠でしたが、高校2年の時(1971(昭和46)年)に県大会で優勝し、インターハイに出場しました。
インターハイの会場は香川県丸亀市で、福島市からは丸々半日の道のりでした。
宇高連絡船
早朝に福島を発つも宇高連絡船に乗る頃にはとっくに日が暮れ、「今夜も汽笛が、汽笛が♪」という都はるみの「涙の連絡船」の歌詞そのもののでした。
宿に着くと、私は気が付きませんでしたが先輩が「ここは連れ込み旅館だ」と、畳から30センチくらいが鏡になっている壁を指差し言いました。
地方の一都市で宿もそんなにはなく、苦肉の策だったのでしょうね。連絡船から見た夜空と宿の鏡だけが、情景としては記憶に残っています。
何故か低い位置に鏡(笑)
時は流れ既に勤めていましたが、1981年4月に熊本大学での薬学会に出張しました。
同僚4、5人と1部屋に泊まりましたが、誰が予約したのか部屋と風呂の仕切りは曇りガラス。見たくもない同僚の裸のシルエットが映りました。
夜な夜な近くの雀荘で「宮崎美子(熊本大出身)もここで麻雀したんじゃない」などと言いながら卓を囲んだことと、宿の仕切りの曇りガラスだけが記憶に残っています。
何故か中の見える浴室(笑)
その1年後には大阪市大での薬学会に出張しました。
大阪の営業所の方に宿を取ってもらいました(ネットで予約できる時代ではありませんでしたので)が、やはり仕切りは曇りガラスでした。
女性の主人が朝食を茶の間に用意して、雨でよれよれになったスラックスにアイロン掛けしてくれて、アットホームだった記憶があります。
連れ込み旅館に単なる宿泊で、一度ならず三度も泊まったとは、かなり希有(けう)な体験の持ち主かなと。今にして思えば。
ツーさん【2024.9.16掲載】
葉羽 三度もかよ!?(大笑) 幸いにして連れ込み宿は一度も経験無いなぁ、もう一生無いだろな。多分だけど(笑)