吉村昭の短編集「帰艦セズ」(文春文庫)の表題作を読み始めて間もなく、次のように書かれていました。
「・・・禁固拘留の身でありながら霞ヶ浦航空隊を脱走したのは、昭和十九年五月上旬であった。・・・落下傘の窃盗・・・九七艦上攻撃機が爆破され・・・重要容疑者・・・」。
「帰艦セズ」(文春文庫)
前に読んだような気がして調べてみますと、その部分は同著者の長編「逃亡」(文春文庫)の要約みたいな記述で、「逃亡」の主人公が「帰艦セズ」で別の話の主人公になっていました。
「逃亡」を読んだのは1年半くらい前で、まだ記憶に残っていたことに、まだまだボケてはいないかと。
しかし、読んだことが記憶に残っていないとなると、記憶がないことに気付かないわけで、それは知らず知らずのうちにボケるということを示唆しているのでしょうか。
吉村昭:著「逃亡」
ボケていないと思われることのみを取上げて安堵するのは、早計の誹り(そしり)を免れないですね。
ところで「帰艦セズ」のあとがきに次のように書かれていました。
「短篇を書くことはまことに苦しいが、私の生きる意味はそこにある、と思っている。厳冬の日に、滝に身を打たれるようなひきしまった気持になる。絶えず神経を周囲に働かせて、格好な短篇の素材はないか、と探っている。考えに考えて絞り出す素材もあるし、偶然耳にしたことを素材に書くこともある」。
滝に打たれるは大げさにですが、「短篇」を「雑感」に置き換えると私の心境といって過言ではありません。
小説家吉村昭
むむっ、作家と同じ! ビジネス文書などは別にして、「書く」ということは多かれ少なかれ、そういうものなのでしょうね。
ツーさん【2024.7.29掲載】
葉羽 作家の気分体験ツアーは、2020年に実施された実際の画像。編集者からの「原稿まだですか」催促が矢のように届く(笑)