|
|
その48「江戸文化、川とまち-3の巻」 | |
ピカイチ君の講演「江戸文化、川とまち」の最終部分です。 江戸の話はこれくらいにして、もう1枚のペーパーがヨーロッパの話です。 私が平成12年にイギリス、ドイツ、イタリア、フランスへ行きましたが、なぜここでご紹介するかと申しますと、ヨーロッパは非常に美しい町が多かったです。 日本と比べてどう違うのかといいうことを、実はもっと写真など紹介したいものがありますが、準備が出来ませんでしたので、このペーパーで簡単にポイントだけ説明させて頂きます。 「美術館での感性教育の文化」という事で、パリにはルーブル、オルセーなどいろいろな美術館があります。そこで大人が、子供達に相当時間をかけて説明します。 美しいものを見せることが大人の責務ということで、子供達にきちんと説明します。
ミレーの「落穂拾い」も非常に有名な絵ですが、小学校の子供達に、1枚の絵に20分くらい時間をかけて説明します。 日本にこういう教育はあるだろうかと思いました。美しさが分かる感性に非常に感動しました。 「中心市街地にある大きな公園」ということですが、ヨーロッパは日本と違い石造りの文化です。地震の無いところですから、成り立つのだと思います。 日本は地震があり、火災も多く、木造の文化です。 ヨーロッパは石造りの町で、日本のように庭付き一戸建てという文化はありません。町の中に住んで、中心市街地にある大きな公園の中でコミュニティを保つ、そういう公園の使い方をしています。 歴史を見ると、ヨーロッパは略奪の文化であり、日本のようにのんびりした城下町や、お堀くらいの話ではありません。 肉弾戦争を先祖代々が行ってきているので、城壁と公園が街づくりのシンボルとなっています。城壁によって住民を敵から守る、農耕者を城壁に入れて守る、それがヨーロッパの街づくりの基本です。
次に、「ヨーロッパには電柱が無い」ということです。最近日本もCCボックス(地中化)を行っていますが、ヨーロッパは本当に電柱がありません。 みな石造りですから、石のところへ電線を伝えて行けば、電柱はいらなくなります。 日本はCCボックスを行っていますが、ヨーロッパは徹底して背景、借景という背後に映るものも大事にしています。 日本のCCボックスはまだ、地区計画で借景も一緒にセットにならないと本当の綺麗な町にはならないのではないかと思います。 後ろを見ていただきますと、私はスケッチなども好きです。 経費の関係で白黒コピーですが、これはローデンブルグで、14世紀の町です。
第二次世界大戦で壊滅的に壊されてしまいますが、全部煉瓦造りで石を積んでいく、非常に厳しい地区計画、建築協定で守っているということです。 ここは年間350万人くらいの観光客が来ているところです。 まとめますと、ヨーロッパはコミュニティ、教会、城壁、生活、そしてそれをベースに、目に見えるところは全て公共性があるというまちづくりです。 日本は、みな自己中心で自分がいいところで町を作っていますが、ヨーロッパは目に見えるところは全て公の責任があるということで、自分の最適解ではなく、まず全体の最適解を大事にして、衣装、高さ、形などを守っています。 それが全部地域に根ざした地産地消の材料で出来上がっているということです。以上簡単ではありますが、ざっくばらんにご説明させて頂きました。 今度は郡山の話ですが、私は今、県中建設におります。 私は地図を見るのが好きですが、ここに郡山の地図を準備しました。これは、明治41年の郡山市です。
ここに見えますか、これが郡山の駅です。蛇行しているのが阿武隈川です。町らしい町であったのは、今のうすいの前の通りとぶつかる辺りと、開成山の前と大槻、喜久田、この辺が集落としてぽつぽつとありました。 本当に川が蛇行していました。高度成長の前になると、だいぶ道路が出来てきます。河川もある程度出来てきます。しかしまだ住宅地は、郡山の駅を中心とした街づくりとなっています。 これが昭和44年で、この頃は市外各区域内の人口は、16万人くらいです。 ところが今の平成12年になると、こうなります。よくご覧になりますと、あれだけ氾濫していた阿武隈川が改修されて、蛇行していた氾濫原のところに人が集中して住むようになります。 こういう災害は、大地が証明しています。浸水して危ないところに人が住んでいると言えます。ここに住んでいる方がいらっしゃいましたら、ごめんなさい。 郡山の特質は、溜池です。農業用水が無くて溜池がたくさんあり、自然がたくさんありましたが、都市が拡大していく中で池が段々と無くなり、どんどん住宅地になってしまっています。
段々自然が無くなってくる、従って川の水も段々汚くなってくるのだと思います。 こう考えると、サスティナブル(持続的な)というのは、これから少子高齢化、人口減少する中で、今を保全していくこと、これ以上まちを拡大させないこと、そして今のあるものを大事に、これ以上悪くしない政策が必要だと思っています。 少し小さくて、ユニバーサルデザインには相応しくないパネルですが、郡山をもっと立体的に見る必要があると思っています。 猪苗代湖が500mあり、郡山市街地が200mちょっとですから、比高差にすると300m弱あり、水がめを背負っています。その恩恵で郡山市民はきれいな水を飲んでいます。 猪苗代湖を守るために、裏磐梯、北塩原、猪苗代は下水道を一生懸命行っています。郡山は、東京電力に減電補償をして取水していますが、そうしてきれいな水を飲んでいます。 最近は、三春ダムからも来ていますが、上流域があるので、郡山ではきれいな水を飲めると言うことです。実はそういう地形の中で、生きているということを説明したいと思っていました。
話す順序が乱れてすみません。江戸時代の郡山の交流です。 郡山とは、どんな町であったかと言いますと、奥州街道の宿場町でした。 どんな成り立ちであったかと言いますと、江戸幕府に送る会津の買い米を、猪苗代湖を船で渡り、三森峠、御霊櫃峠、多田野を通って郡山へ来ます。 そして阿武隈川の安原渡しや横川渡しなどから、船で北の方へ持って行き、太平洋へ出て、そこから銚子沖へ出ます。 川村瑞賢が作った東回り航路で、江戸へ全部送って行ったということです。 順番が前後いたしましたが、以上で終わらせて頂きます。 有難うございました。 このシリーズは今回で完結です。次回作をお楽しみに!
|
Copyright(C) Pikaiti&Habane. All Rights Reserved. |