(※背景写真:江戸の町)↓
<<INDEX | <PREV / NEXT>
 

「Fusses Over」

佑樹のMusic-Room
その46「江戸文化、川とまち-1の巻」
by ピカイチ君&葉羽
Site arranged by Habane
 

葉羽 2002年9月21日にビッグパレットふくしまで開催されたシンポジウム「江戸と欧州の川とまち並み」において、ピカイチ君が基調講演を行った「江戸文化、川とまち」を三回シリーズでご紹介します。

ピカイチ君 皆さんこんにちは、遠藤ピカイチというご紹介です。名は体を表す、名前の通りピカイチでして、猫の額ではなく、大きい額が登場しましたが、2、30分ほどお耳を貸して頂きたいと思います。

 (司会の)相楽さんから一昨日このユニバーサルデザインで、江戸の話をしてくれないかという話がありました。私は、ユニバーサルデザインとはよく分かりませんでした。

 バリアフリーという話はよく聞いたのですが、バリアフリーとは、障害物を撤去していく、除去していくというバリアフリーです。

 どちらかと言えば、体が病気になった時にその患部を除去していく、治療していくというのがバリアフリー。

 ユニバーサルデザインとは、予防医学的な、将来病気にならないような、誰もが幸せに生きていけるような話として聞いているわけです。

ユニバーサルデザイン

ユニバーサルデザイン

←誰にでも使いやすい手すり

 実は、相楽さんにA1サイズでお願いしていましたが、経費の都合でこのくらい小さいものになってしまいました。遠くの人は見えないと思います。ユニバーサルデザインではないですね。

 私の考えるユニバーサルデザインとは何かということですが、今まではバリアフリーという小さい話、それが発展して使い勝手、システム、そういうハードを中心としたユニバーサルデザイン、そして相楽さんがおっしゃっていたもっと大きな、行く行くは心につながるのではないかという、私はサスティナブルコミュニティーだと思います。

 それは永遠なるもの、歴史、風土、文化等がソフトとして人間の豊かさをかもし出すものだと思っています。それで、今回歴史を学ぼうということで、江戸文化の話をさせて頂きたいと思います。

 ペーパーは、「江戸の水環境(都市計画)」を見ていただきたいと思います。

 これは職場で、自主的に勉強しているところですが、私もどちからというと凝ってしまう方なので、江戸について後ろを見ると20冊の本を読みました。

 それで面白くなってしまい現地調査に2日間行きました。資料の東京江戸博物館、深川江戸資料館、後は現地を歩いてきました。最後は吉原まで行きましたが、昼間の吉原でしたが、真面目に帰ってきました。

東京江戸博物館

東京江戸博物館

 ペーパーの最初に戻りますと、江戸というのは、すごく美しい都市だったらしいです。

 読んだ本の中で、外人が賛嘆する言葉を書いてありますが、「トイレの開放と糞尿の貨幣価値が持ったところである。」と、「下水が土壌を豊かにしている。」と、「美しい風景だが町が臭い。」という話です。

 これはマイナスイメージですが、「誰も歩いていないようできれいに清潔だ。」と、「訪れたどの国よりも気持ちがいい。」ということ。

 そして「サイクル、リサイクルが徹底している。陽気でたくましい。衛生状態のレベルの高さ、良質の水が日本の習慣や良好な健康と公衆衛生をもたらしている。」ということです。

 ロバート・ホーチンは植物学者ですが、「町並みの美しさは世界のどの都市にも及ばないだろう。見事に着飾った貴婦人達に出会った。」こういった外国人の人たちが、江戸を賞賛しているわけです。

 このころ、ヨーロッパはどうだったかと言うと、非常に劣悪な環境にありました。世界の中で100万とも130万人とも言われている江戸、これだけ美しい都市は確かに無かったのだと思います。

Robert Fortune

Robert Fortune

『幕末日本探訪記―江戸と北京』
三宅馨訳、講談社学術文庫

 少し江戸の成り立ちを見てみたいと思います。江戸というのは、紙芝居のようになってしまいますが、これが江戸の原型です。

 もともと江戸は日比谷入江と言い、今の日比谷公園の辺はみんな入江でした。海の中でした。それが1590年に徳川家康が入って初めて埋め立てをするのですが、神田山を切り崩して来るわけです。

 今の駿河台、明治大学の辺りを切り崩して来るわけです。それで、江戸城を築城して来るのですが、その時に江戸は水運の町、ベネチアみたいな町だったらしいです。

 都市面積の26%が水路であり、その水路は何かと言うと道路と同じです。昔は馬車も無かったので、船が車でした。交通物流のハイウェイとして機能してきたということです。

 年貢米の話がありますが、大きな話として、中ほどに利根川東遷荒川西遷事業というのがあります。

 何かというと、今の利根川は銚子沖に流れていますが、昔江戸時代の頃、利根川は江戸、今の皇居の所に流れていました。

 それを徳川家康は東遷事業と言い、今の利根川遊水地を、思い切り付け替えて東のほうへ流すわけです。

利根川東遷&西遷事業

利根川東遷&西遷事業

 それは洪水を防御するという視点と、もう一つは年貢米を銚子から舟で上がって持ってくるという舟運の性格が非常に強かったわけです。

 江戸の成り立ちというのを、大体漠然と分かって頂けたでしょうか。

 江戸というのが今どんな風になっているかというと、今の江戸の状況ですが、中央区が江戸の町人町、ここがいわゆる江戸です。

 東京駅から西側については、武家の町です。中央区、江東区が江戸の町というかたちです。

 水文化の話ですが、江戸の上水道、江戸は埋立地でして地下水はありません。それで積極的に水を引っ張ってきます。

 どこから持ってきたかというと、いろいろなところから持ってきましたが、最終的には玉川の羽村堰、玉川上水、これを43キロ持ってくるわけです。

 武蔵野台地の一番丘陵地の尾根部のところを、水路で持ってきて田んぼを灌漑し、城下町へ持ってきました。

 よく時代劇で井戸端など出てきますが、地下水かと思いましたが、地下水ではなく立派な木樋、竹樋でつながった立派な上水道が整備されている。

 これだけの水道が出来ていたのは、江戸しかないということになります。

Robert Fortune

ポンペイの水道跡

←道路左側の水路。

 紀元前にポンペイにも水道はありますが、それは鉛の官で作られた水道で、ポンペイはベスビオ火山で一晩にして無くなってしまうのですが、全て鉛中毒の記録が残されています。

 江戸は水道を非常に大事にして、町人はタダであった、武家は石高に応じて支払っている。町人は地主が支払っていきます。

「金より水を粗末にするのが悪い。」という徹底したしつけの中で行います。一番汚染の原因となっている米のとぎ汁、これは流さないで植木と打ち水に使ったということ、これが今と大きく違うところです。

葉羽 第二回へと続きます。

《配信:2020.2.2》ピカイチ君 ピカイチ君葉羽葉羽

PAGE TOP


   Copyright(C) Pikaiti&Habane. All Rights Reserved.