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その19「束松峠秘話の巻」 | |
今回は、ピカイチ君が語る“越後街道・束松峠秘話”でございます。 束松(たばねまつ)峠は、明治のはじめまで越後(新潟・下越)と会津を結ぶ街道である。 束松は松が根から上で箒(ほうき)のように分かれていることが由来である。 現在は天然記念物となっている。 磐越自動車道、国道49号が出来た現在、日常的に使われることはない。
地図上では別舟戸(わかれふなと)線という名で破線表示であり、車の通行できない交通不能県道である。 かつて、地震や地滑りで江戸、明治、昭和とルートを変えながら、県道昇格のため地域住民が自ら洞門(トンネル)を掘り(断念)進んだ会津の歴史に必ず出てくる束松峠。 わずか100年前まではここが会津の広域交流の動脈路線であり、人・もの・情報が移動したことはあまりに知られていない。その時代時代でこの峠はいろいろな人がいろいろな想いで通過している。 天屋集落に車を置き、地図を頼りに新道を歩く。程行くと案内標識が設置してあり迷うことはない。 30分も行くと峠の茶屋に着く。標高460m程度なので猪苗代湖面よりは低い。
天地人の上杉景勝の120万石時代は新潟県の東蒲原郡や佐渡も領地であったから当然、景勝も兼続も歩いたことは想像に難くない。 時代に先駆けて激しく生きた吉田松陰は戊辰戦争の17年前の1852年厳冬期に会津藩士が止めるのも聞かず2度も通過している。(吉田松陰の東北紀行より) 東北を初めてイギリス出身の初めて東北を旅した探検家イザベラバードは、「下りは険しいが、絵のような道である」と賞賛している。(東北奥地紀行より) 会津落城後には会津藩への埋葬不許可や横暴・卑劣を働いた政府役人を会津藩士伴百悦と高津沖三郎がこの束松峠で越前藩士を待ち伏せし斬り殺した。 また、会津藩士の子、山川健次郎(後の東大総長)らも秋月悌次郎の計らいで会津藩の将来を託し通過している。 秋月悌次郎が昌平学(今の東大)で同窓生の長州藩奥平謙輔から「今は敵味方になったが、貴方を失うのは日本の損失、一緒に新しい国を作っていこう」と厚い手紙をもらい密かに越後に会いに行った帰りに、ここ束松峠で以下の漢詩「北越潜行の詩」を読むのである。
有故潜行北越帰途所得 会津 秋月胤永 行くに輿無く 帰るに家無し 國破れて 孤城雀鴉乱る 治は功を奏せず 戦は略無し 微臣罪あり 復た何をか嗟かん 聞くならく 天皇元より聖明 我公貫日至誠に発す 恩賜の赦書は 応に遠きに非ざるべし 幾度か手を額にして京城を望む 之を思い之を思うて 夕晨に達す 憂は胸臆に満ちて 涙は巾を沾す 風は淅瀝として 雲は惨澹たり 何れの地に君を置き又親を置かん 胸を締め付けられる漢詩である。 この束松峠に立ち、会津盆地、会津磐梯山、山々の稜線を眼下にするとき、先人の想い、地域の想い・・・・。 感傷ではなく、今会津の誇り、日本人の誇りといった心のよりどころ、未来に引き継いでいくべき会津の歴史街道であるように思う。
新緑の椚の大木や雑木の林を汗ばみながら、車の通れない人だけの道だって歴史遺産として、人の道として、きちんと残すことも人の道ではないかとメタボの体がささやくかけるのである。 【原題:越後街道、束松峠秘話】 話に出てくるイザベラ・バードはイギリス出身の女性旅行家で、明治11年に明治維新間もない日本を訪れ、東京から北上して会津を縦断し、北海道に到る旅をしました。 彼女が会津を抜ける道すがらを「イザベラ・バードの会津紀行」で解説したのが福島県立博物館長である民俗学者赤坂憲男氏。 もちろん僕も読ませていただいてます。 驚くべきは、日本が二つに分かれて壮絶な闘いをした間もない時期に、英国女性がたった一人でこの長い道のりを踏破できたことです。 当時の日本人たちは、「義」のために戦いこそすれ、決して野蛮な人々ではなかったと再認識いたしました。 彼女は、旅行記「日本奥地紀行」において、次のように述べています。
当時の日本の実際を知る貴重な記録「イザベラ・バードの会津紀行」、是非ご一読を!
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