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 その12 ひとを守れてますか? 

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“Walking Man” by Music of my Mind

鞍馬「福岡県でいじめを苦に中学生が自殺するという事件がありましたね。」という書き出しで書こうと思っていたのですが、そのあとまた何件か続いたようですね。

 こういうことが起こると、「こういう事件は報道しないほうがいいんじゃないか?」と思ってしまいます。

 大昔になりますが、トリカブトという毒性の強い植物から自分で毒を抽出して、保険金目的で次々と奥さんを殺害した事件がありました。

トリカブト

トリカブト

 そのとき、ある報道番組で、トリカブトの入手方法とか、毒の抽出方法とか、どうやって怪しまれずに相手に飲ませることができたかなどの検証を専門家を交えて事細かに説明しているのを目にして、「こんなこと放送していいのかな?」と子どもながらに思ったことを思い出します。

 事件の毛色はまったく違いますし、知る権利とか報道の自由があるのもわかりますけど、「何か事件があったみたいなんで、視聴者には知る権利があるでしょうから、それを伝えることがどういう社会的影響を生むかはよくわかんないですけど、良くないことだと思うからとりあえず批判的に報道しときます。」とも見受けられる彼らの姿勢は、あまりにも高慢です。

 隠蔽すればそういう事件が繰り返されるから報道するという考え方もありますけど、短期的に見ると、報道したことによってそういう事件が繰り返されてますよね。

事件報道

事件報道

←報道は人を守れているか?

 報道を見て模倣する人が出てきて、短期的には多少の「守れない人」が出てくるのは必要悪なのでしょうか。

 報道の仕方を工夫すれば、もっと守れた人が、命を失ったり犯罪に巻き込まれなくて済んだ人がいたんじゃないかと思っています。

 報道はひとを守れているのでしょうか?

◆ 守れなくて当然

 さて、冒頭の福岡県の事件についてです。

 自殺した少年の通っていた学校の校長先生が記者会見で生徒に対する説明会でいじめという表現を使わなかったことについて、つまりいじめがあったことを認めなかったことについて指摘され、「生徒を前にして、いじめという言葉が出てこなかった。」とか、「(いじめが)自殺を誘発したかもしれないけれど、原因ではないと考えている。」とか言っているのを耳にしました。

 こんな言葉を聴いて、「この人はすごい人だな。」と思いました。

 すごい自己防衛本能のある人だなと。

福岡いじめ自殺事件

福岡いじめ自殺事件

 いじめられっ子には、2つの思考タイプがあると思います。

 ひとつは、自分がいじめられていることを認めないタイプ、もうひとつが、いじめられていることを認めて思い悩むタイプです。

 前者は、朝出会い頭にいきなりつかみかかられても、それが挨拶だと思うし、飲食代を不条理におごらされても、自分が裕福だから恵んでやっているのだとか思って、自分がいじめを受けていることを心の底から否定します。

 つまり、本当は不愉快なのに、自分にすら嘘をつこうとする自己防衛を試みます。

 なぜなら、いじめられているなんて認めたら、悔しくて、恥ずかしくて、つらくて、生きていられなくなるからです。

教育委員会の記者会見

教育委員会の記者会見

←「いじめと自殺の
因果関係は不明で・・」

 後者は、最初はいじめられていることを否定しますが、いつからかやっぱり自分がいじめられていることに気づいてしまいます。

 でも誰にも相談できず、我慢して周りのひとには気丈に振舞います。

 そして、一向にいじめがおさまらずに、我慢が限界に達したとき、彼らは自殺という、自己防衛とは正反対の行動に出ます。

(ある意味それが究極の自己防衛という考え方もできますが・・。)

 福岡の事件や、それに続くいわゆる「いじめ苦自殺」の被害者はまったくこの思考タイプに当てはまります。

事件報道

大津中いじめ自殺事件

←こちらは2011年の事件。

 一方の校長先生は、明らかに前者の思考タイプの振る舞いをしています。

「一部の人にはいじめととられられるかも知れない行為があったかもしれないが、それをいじめとは認めないし、よしんばそれがいじめだったとしても、そのことが自殺の原因だったとは考えていません。」といわんばかりの彼の態度がそれを物語っています。

 きっと彼も、そうでも思わないと生きていかれないのでしょう。

 そんな心構えでは、正反対の思考タイプの生徒を守ることができないのも、その後の対応の収拾がつかなくなるのも残念ですが当然です。

 自殺した生徒の心情が、まったく理解できないはずですから。

 彼らはそういう発言を通して、何を守ろうとしているのでしょうか?

◆ 本当に大事なのは

 ところで、こういう事件で本当にセンセーショナルな部分って、「自殺してしまったこと」であって、「原因がいじめであること」ではないと私は思います。

 あるいは少なくとも、この2つの事実は別々に批判されるべきです。

 つまり、「自殺なんかしちゃいけないんだ」ということと、「いじめなんかしちゃいけないんだ」ということを両方とも明確に伝えるべきだということです。

 被害者(=遺族の)感情への配慮もあるかもしれませんが、各局の報道は後者に偏っています。

学校の記者会見

学校の記者会見

←大津中事件で。

 どんないじめがあったのか、誰がかかわったのか、学校はその後どんな対応をしたのかといった点ばかりが報道されます。

 怨恨による殺人事件でも似たような報道をしますね。

 そもそも問題の解決に殺人という手段を選択することが相当に道を外れたことなのに、犯行に至った経緯をつぶさに解説し、場合によっては加害者に対する同情心すらあおっているようにも見えます。

「どちらが被害者だかわかりませんね。」といった表現をたまに耳にしますが、これはその顕著な例です。

「そこまでされれば死にたくも、殺したくもなる」とでも言いたげです。

 本当に大事なのは、死んでしまったり、殺してしまったりするのがいけないことだと、まず伝えることだと思うのですが。

 最近こういう事件が続いているので、自分の子どもには、そういう部分を補って話すように心がけています。

 それが、彼らを被害者や加害者になってしまうという不幸から守る方法のひとつだと思うからです。

鞍馬【2019.10.15 リニューアル・アップ】

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