鞍馬 ライブドアやヒューザーが相変わらず新聞をにぎわしていますが、そんな中、国会では日本国内で拡がり行く格差のことについて議論がなされているようです。
たとえば、民主党のホームページの記載によると、前原代表が、就学支援(学校に通うために資金の貸付など)の利用の伸びと学力の低下の相関関係を説明し、政府の考えを問うたのに対し、小泉総理は、「勉強が出来ないことを悲観しなくてもいいのではないか。」と答えたそうです。
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小泉(元)総理 |
以前の所信表明演説で、戊辰戦争敗戦直後の長岡藩が飢餓状態に苦しむ中、他藩から差し入れられた米百俵をあえて売り払い学校を作ったというエピソードを引き合いに、改革への意気込みを語った人と同一人物とは思えない発言です。
本来、教育の大切さを説いている「米百俵の精神」はどこにへ行ったのでしょうか?
◆ 機会の格差/結果の格差
前原代表の説明も悪かったのかもしれませんが、小泉総理の受け答えは、あまりにも不適切です。
それに対して、(不景気で両親が十分に稼ぐことが出来ず、教育に廻るお金が減っているために)子どもが得られる学習機会に差が出ていること、つまり機会の格差が拡大していることをあらためて指摘したと記載されています。
これまで私は、「格差」といわれると、「勝ち組」「負け組み」という言葉に象徴されるように、社会的地位や所得などの結果の格差につい目が行ってしまっていました。
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格差社会 |
このような格差は、自分の今いる位置を知り、上を目指して頑張ろうというモチベーションを維持するために必要なことですし、個人の能力に差があるならば得られるものに差があるのは仕方のないことだと思っています。
なので、格差が生まれることがどう問題なのか今ひとつよく分かっていませんでした。
ですが、この記事などを読んで、今起こりつつある(あるいはすでに起こっている)問題は、たとえば所得が低いなどの理由により、結果として就学機会が得づらくなっていて、そのことがまた、子どもたちが将来安定した職に就くことを妨げるという悪循環を生み出す(あるいは生み出している)のではないかということが分かりました。
つまり端的に言うと、機会の格差と結果の格差が抜け出しがたい泥沼の状況を引き起こしているということです。
◆ 機会の格差を埋めようという理論は破綻する
機会の格差と結果の格差は境界があいまいなところがあります。
大学に行くことが必要かという議論はさておいて、大学受験を例にとると、私立の大学であれば、高校や予備校でどんな成績をとっていようと、どんな危険な思想を持っていようと、受験だけはさせてくれます。
どんな難関大学であっても、受験を拒否されるということはありません。
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渋谷公園の“派遣村” |
私にとっては機会は均等に与えられているような気がしますが、実は以下ような前提条件があります。
1.高校を卒業しているか、大検をとっていること。
2.受験料を支払えること。
何らかの理由で高校に通えなかった、あるいは通ったけれども卒業できなかったような場合は、大学を受験する資格を与えられません。
また、かろうじて高校を卒業できる見込みがあっても、受験料を支払う余裕が無ければ受験することが出来ません。
というか、そもそも大学の学費を払うだけの経済力が無ければ受験をする意味すらありません(奨学金をもらうという道は残されていますが。)。
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メーデー |
このような問題に対応し、受験機会の均等をもうワンランク図ろうとすると、
1.だれもが高校に通い、そして卒業できるようにする(つまり、経済力、学力、就学意欲のすべてをフルサポート)。
2.旧国公立大学の受験料を無料にする。
~などのアクションを起こさなければならなくなります。
そもそも甘やかし過ぎじゃないかとも思いますし、一見機会の格差を是正しているように見えますが、これらの問題は高校に通うだけの経済力や学力、就学意欲がないなどの、結果の格差により引き起こされるものであることが多いため、純粋な意味での機会の格差是正とは言えません。
この議論を続けた場合、税金をつぎ込んで機会の格差を是正しようとしたけれど、やっぱり結果の格差を埋めてましたという結末を迎えそうな気がします。
機会と結果の格差を分けて考え、結果ではなく機会の格差を埋めることが重要なんだという理論は、恐らく早晩破綻します。
◆ 頑張ることすら許されない社会
ジニ係数などの耳慣れない数字を使って説明しているので分かりづらいですが、長引く不況で所得の格差が生まれていることは、どうやら事実のようです。
これまでは、今ほど格差が無かったか、たとえ大きな格差があったとしても、大多数の国民が最低限の所得は得られ、また、少しずつではあるものの所得を伸ばすことができたのでしょう。
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ジ
ニ
係
数 |
つまり、少し言葉は悪いですが、高等教育を十分に受けなかったとか、将来を見据えた職業の選択をしなかったといった親の失敗を子どもの努力によって挽回できる可能性が十分にある社会だったのだということです。
逆に今は、それが出来ない社会になりつつあるということなのだと思います。
格差が、「自分の今いる位置を知り、上を目指して頑張ろうというモチベーションを維持する」ためのものではなく、越えられない壁を思い知らされるためだけの存在になりつつあるのです。
このままでは、機会と結果の格差が生み出す解決の糸口が見えない泥沼の中で、頑張ることさえ許されない社会になってしまいそうです。
◆ 子どものためにできること
自分が低所得者だったらば子どものために何をしてあげられるのでしょうか。
もしすべてがお金の問題ならば、選択肢はいくつかあると思います。
1.自分が昼夜を問わず働いて子どもの学費を稼ぐ。
2.一番目の子どもには進学をあきらめてもらい、子どもと力をあわせて働いてせめて二番目の子どもだけでも進学させる。
3.どちらの子どもにも進学をあきらめてもらい、全員で力をあわせて働き、せめて孫の代では進学できるようにする。
2、3を書いていて、あまりに親として情けなくて涙が出てきました。
私の職場の友人に、実際に2の選択肢を選んだ本人(母子家庭で妹の学費を稼ぐために高校卒業後就職。妹は大学に通っている。)がいます。
彼は、きっと自分の子どもにそんな思いをさせない立派な親になれるでしょう。
私もそうなれるように、子どもにつらい思いをさせないように頑張ります。
鞍馬【2019.10.1 リニューアル・アップ】
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