歌手についても、エレクトラ役のアイレ・アッソーニがやはり超絶的なエレクトラだった。ひとつだけ不満なのは、大団円で狂ったような歓喜の踊りが全く見られなかったこと。
踊り狂って死ぬ(あるいは失神する)という台本の指示が何故かスルーされているのだ。しかしこの踊りは滑稽になる例が多くてこれはこれで適切な演出かもしれない。
エレクトラの母親クリテムネストラ役の藤村実穂子については、本当に感服した。この不眠症で眠れずに少しばかり寝ても悪夢に悩まされる精神崩壊寸前の女王の歌がこんなに頭に入って来る歌唱を初めて聞いた。
実は2024年4月21日の東京・春・音楽祭セバスチャン・ヴァイグレ指揮読響の演奏会形式上演(2日目)で藤村実穂子のクリテムネストラは聞いている。その時も感心したのだが、今年60歳の藤村の歌唱はさらに円熟していた。切れ切れの独白がちゃんとした「歌」になっているのだ。

そしてエレクトラの妹のクリソテミス役のヘドヴィグ・ハウゲルドの圧倒的声量による激烈過ぎる歌唱は本来の女らしいキャラクターに相応しいかどうかは別にして聞きものだった。
その他の歌手もオレスト役のエギルス・シリンスを始め充実。なにせ5人の下女が金子美香、谷口睦美、清水華澄、高橋絵理、田崎尚美という豪華さなのだ。
ヨハネス・エラートの演出には賛否両論があるだろう。このオペラは単調な独白&会話劇になりがちで、しかも舞台は基本的に変化なし。全体に暗い色調が支配的になりがちなのだ。
これを面白く見せようという意欲が溢れているのだが、ちょっと面白くし過ぎた踏み外しも見られた。特にクリテムネストラとエギスト(エレクトラの実父アガメムノンをクリテムネストラと共謀して殺害)の扱いだ。

クリテムネストラは第2場(エレクトラの有名な独白アリアの場面から)からテーブルに座っている。本来は第4場からの登場のはず。またすでに第6場で殺されているにもかかわらず第7場にも車椅子で登場している。
エギストは本来は第6場にしか登場しないが、第5場(エレクトラとクリソテムスの対話)ではテーブルに座って食事中。縫いぐるみの人形を食べている。このエギストの第5場からの出現についてはその後の展開(遠方に居るエギストにオレストの死を知らせに行く下僕の存在)を考えると疑問を感じた。
その他、3基設けられているブランコ、ピンク電話、シャンデリア、カーテン、突如登場する白い服に白塗りの少女たちなどは舞台を面白くはしているが意味不明。
道化師の恰好をした3人(若い下僕、年老いた下僕、そしてオレストの養育者)も第3場から舞台後方にずーっと登場している。ギリシャ悲劇としての格調を損なうとは思わないが、微妙ではあった。
なおこれはエラートの演出ではないが、なぜエレクトラはあれほど執着していた斧をオレストに渡すのを忘れてしまったのだろう?オレストが生きていたことを驚喜してうっかり忘れたのだろうが、なぜこんな余計なことを原作者のソフォクレスは書いたのだろうか?そんなことも考えさせられた。

とにかくこのオペラの圧力は凄い。休憩なしの1時間48分だが、聞き終わるとグッタリする。それは心地よい疲労感でもあるのだが。
なおプログラム(1500円)に岡田暁生・京大名誉教授が書いた「『陽気な黙示録の時代』/ウィーンとユダヤ人の芸術」はヨーロッパにおけるユダヤ人問題に関して実に教えられるところが多かった。