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2月20日に、高級セレクトショップであるサンモトヤマの故茂登山長市郎(もとやまちょういちろう)会長のお別れの会が、帝国ホテルであって参列・献花してきた。

「その国の第一の通り(ストリート)というのは必ず宮城(宮殿)の近くにできるものなんだよ」と何回も何回も教えてくれた茂登山会長のお別れの会は、帝国ホテル以外には考えられないのだった。

 サンモトヤマは銀座・並木通りに本店を移す前は、日比谷の三信ビルに本店があった。三信ビルは取り壊され、東京ミッドタウン日比谷(3月29日オープン)の一部になる。時代の移り変わりを実感せずにはいられない。

東京ミッドタウン日比谷

 実は茂登山会長は昨年の12月15日に肺炎で亡くなっていたのであるが忙しい年末年始を目前に控え、また1月にはサンモトヤマの並木通り本店(11月にリニューアルオープンしたばかり)の隣にオープンした「ルイ・ヴィトン」並木通り店のオープニング(移転)や真上にできたハイアットホテルの新業態ハイアット セントリック 銀座 東京の開業式があった。


(ハイアット セントリック銀座東京)

 そんな慶事が続いているのに、弔事を公開するなどということは慎まなければならない。会長のそんな遺言があったのかどうかは知らないが、商売人だった会長ならきっとそうしただろうと思わせるような日程であった。

「は、は、は。死せる長市郎、ファッション業界を走らすか」と会長はこの50日間を天上から見てきっと笑っていたに違いない。11月24日が誕生日で、ちゃんと96歳の誕生日を家族と祝って悠々と逝った。

 私がその死を知らされたのは1月の半ば過ぎ、早速WWDジャパン1月29日号(P.3)で追悼記事を書いた。

 とにかく会長と会うたびに「おい、きっとお前のほうが先に行くぜ」というのが挨拶代わりになっていたが、小生も還暦を過ぎるとまんざら冗談でもなくなっていた。

 別れるときはいつも90歳過ぎの爺さんとも思えぬ握力で握ってくるから、「まさか俺のほうが先?」と考えさせられたものであった。

茂登山長市郎会長のお別れの会

 ここからは愛称のチョーさんと呼ばせてもらうが、落語、講談好きのチョーさんは名言、箴言の宝庫だった。

 そのひとつ「男っていうのは、戦争に行って、刑務所に入り、大病して、会社を潰して一人前なんだぞ」。

 中国戦線で死線を彷徨ったのは事実。チョーさんの名誉のためにいうと、刑務所は外為法違反で限度額以上の現金を国外へ持ち出そうとしたため入所している。

 大病とは確か癌を患っていることだ。吸引式のマッサージ機を愛用していた。「これは癌に効くんだよ」と言っていて、私が欲しいというとプレゼントしてくれた(2,3度使ったがあれどこへいったかな)。

 会社は潰してないはずだが、商売を始めた最初期に一度ぐらい潰しているかもしれない。こんなふうに検証しなくてもチョーさんは一人前の男であった。凄い爺さんだった。

 もう時効だから話すが、「こんなに芸能人が店に来るんだから、チョーさんも若かったし、浮いた話も一つや二つどころじゃないでしょう?」と聞くと「そりゃそうだぜ。でもさ、カミさんに一度バレて、大変な目にあってさ、それ以来は全然だよ」と小さな声で話していたっけ。

茂登山長市郎会長と

 商売人として、チョーさんの後半生はそんなに幸せではなかった。チョーさんは、「グッチ」「エルメス」「フェラガモ」「エトロ」「ロロピアーナ」などのイタリア・フランスブランドを日本に紹介したパイオニアだったが、すべてこれらブランドは、日本に現地法人を設立して、他に利権を与えず独占的にビジネスを行ったからだ。

 チョーさんは、「マーケティングだか何だか知らないけれども、俺はああいうのは好かんな」と大手ラグジュアリー・ブランドのやり方に否定的であった。そうではあったが、そうしたブランドのトップのほとんどが来日するとチョーさんを表敬訪問していた。

 そうした中で、チョーさんは、「これからは素材の時代」、「これからはアジアの時代」と言い続けて、老骨に鞭うってヒマラヤ(パシュミナ)、北極圏(ジャコウ牛の産毛キヴィアック)、ミャンマー奥地(蓮の繊維)などを自分で確かめに赴き、契約して輸入・販売している。

「チョーさん、これっていわゆる首長族でしょ。大丈夫だったの?」と写真を見た私が尋ねると、「あ、それね、ミャンマーのジャングルを小舟で進んで行くんだけど危なかったな」。もはや冒険家と化していたかもしれない。

(ミャンマーの寺院)

 チョーさんとの最後の別れはよく覚えている。2015年の夏だ。その年の2月にWWDジャパンで「ファッショ業界人物列伝」の連載を始めたのだが、その第1回ゲストがチョーさんだった。

 マスコミへの登場はこれが最後だった。その後、7月に東京駅のステーションホテル内のレストランでチョーさんを囲むマスコミ関係者の食事会があって、これが本当の最後。

 実に元気だったが、その後体調を崩して、人前に出ることはなかった。

 その時ステーションホテルを出ると、チョーさんを乗せた車が近づいて来て、「三浦さん、乗らないかい?」と言われ、銀座まで送ってもらった。

 私が車を降りるとき、チョーさんがかけた最後の言葉は、「きーちゃんをくれぐれも頼むよ」だった。

 きーちゃんとは、目の中に入れても痛くない息子の茂登山貴一郎・社長のことである。

(長市郎会長と貴一郎氏)

 チョーさん、さようなら。本当にお疲れ様でした。

                

(2018.4.30「岸波通信」配信 by 葉羽&三浦彰)

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