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初台の新国立劇場でワーグナー(1813-1883)の楽劇「ラインの黄金」を観た(10月4日)。

 いよいよ同劇場の2015-16年シーズンの開幕である。と同時にこれから3年かけて同劇場で上演されることになるワーグナーの4部作「ニーベルングの指環」の最初の楽劇の上演ということになる。

 やはり熱心なワーグナー・ファンというものがいるらしく、日曜日のマチネーだったが、ほとんど満席だった。

「ラインの黄金」の大団円は神々の天上の城への入場

(撮影:寺司正彦 提供:新国立劇場)

 同劇場(1997年オープン)で4部作「ニーベルグの指輪」が上演されるのは今回が3度目になるが、今回は同劇場音楽監督の飯守泰次郎指揮の東京フィルがオーケストラのピットに入り、演出は故ゲッツ・フリードリヒ(1930-2000)が晩年フィンランド歌劇場で制作したプロダクション(1996-1999年)をレンタルしている。

 フリードリヒは20世紀を代表するオペラ演出家だが、飯守監督が私淑していることもあり、今回選ばれたようだ。

 20年近く前の演出だから、少々古めかしい感じもするがフリードリヒは「神々」を小人族や巨人族の運命を無責任に操る無能な天上の存在として描いている。

 ワーグナーの「ニーベルクの指環」4部作に最も影響を与えたのはダーウィン(1809-1882年)の進化論だと私は常々思っているが、生き物の創造主たる神の堕落・没落(無神論)を描き、それぞれがその生き様を決めるのは自らの手中にあるというのがワーグナーの4部作の大テーマだろう。

 たぶん「神→巨人族→小人族→人間」という暗黙の進化論の図式がワーグナーの中にはあったように思っている。

 今回冒頭に映し出されている「トネリコの樹」(4部作を通じた象徴的存在)はダーウィンの系統樹のように私には見えた。

弟のミーメから兄アルベリヒの悪事の詳細を聴取する火の神ローゲ(右)

(撮影:寺司正彦 提供:新国立劇場)

 そうした目で見ると今回のフリードリヒ演出は「神々」の無能・無責任・無節操を徹底的に描き切っている。これほど威厳のない神々の長ヴォータン(ユッカ・ラジライネン)は珍しい。

 一方、悪の権化である小人族の頭目アルベリヒ(トーマス・ガゼリ)や道化役のローゲ(ステファン・グールド:火の神ではあるが半神であって神々から疎まれると同時に神々を批判している)が実に魅力的に描かれ、見事な歌唱・演技と相まって、「ラインの黄金」像を一変させたように思う。

 ワーグナーの楽劇はやはり面白い。特にこの「ラインの黄金」はまるで日本のアニメやゲームのような面白さと楽しさに溢れている。

 例えば巨人族のファゾルトとファフナーの兄弟が登場すると「進撃の巨人」を想起してしまうのは困ったものだ。(※右背景画像⇒)

 そして観るたびに面白い発見がある。今回、神々の長ヴォータンはなぜか白い鉢巻を巻いて登場するがその中央に「ny」のアルファベットが書かれている。

 「ん!?ニューヨーク・ヤンキース?そこまで神々はミーハー化しているのか」。いや、よく考えてみると「ニーベルグの指環」の「ny」ではないのか。

 もちろんフリードリヒの発案ではなくて、新国立バージョンのジョークだろうが。

大蛇に変身したアルベリヒを眺めるヴォータンとローゲ

(撮影:寺司正彦 提供:新国立劇場)

 飯守泰次郎指揮の東京フィルはかなり威勢よくロマンティックなワーグナーを力演していて、これも少々懐かしく昭和の香りがするがそれはそれで十分に楽しめた。

 例えば第3場でアルベリヒが指環を掲げて小人たちを従わせる時の小人たちの悲鳴とフォルテッシモは背筋が凍るような凄絶さだった。

 ひとつだけ苦言を呈すると、ワーグナーの指示なのか、この2時間45分かかる1幕4場の楽劇を休憩なしで上演するのはいかがなものか。

 第2場と第3場に間に休憩が入ってもあまり問題はないように思う。

 実際、途中で席を立って帰って来なかった年輩者が2人いた。

                

(2015.10.20「岸波通信」配信 by 葉羽&三浦彰)

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