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今まで私が観たヴェルディのオペラ「椿姫」の最高の舞台は1995年9月のミラノ・スカラ座の来日公演だ。

(※右の背景画像:第2幕 息子との絶縁を迫る父親とヴィオレッタ)⇒

 リッカルド・ムーティの指揮、リリアーナ・カヴァーニ(1933~)の演出で、ヒロインのヴィオレッタ(椿姫)はティツィアーナ・ファブリチーニが歌った。特に、ゴージャスで細部まで凝りに凝った舞台とまばゆいばかりの色彩感に圧倒されたものだった。

「椿姫」 撮影:寺司正彦 提供:新国立劇場

 カヴァーニは「愛の嵐」(1973年)がとりわけ有名なイタリア人女流映画監督だが、1989-90年シーズンのスカラ座の「椿姫」演出が大評判になりオペラ演出も手掛けるようになった。

 スカラ座の「椿姫」と言えば、ヴィスコンティ(1955年、ジュリーニ指揮、カラス主演)やゼッフィレッリ(1964年、カラヤン指揮、フレーニ主演)といった巨匠たちが手掛けているが、現在でもスカラ座の「椿姫」と言えばこのカヴァーニ演出が使われているのだから、いかに素晴らしい舞台なのかがわかるだろう。

 「椿姫」の演出を手掛けようとする演出家ならこの舞台を知らないはずはないだろう。とにかく一分のスキもない演出でこれを超える舞台はまずないだろうと私は考えていた。

「椿姫」 撮影:寺司正彦 提供:新国立劇場

 しかし、今回新国立劇場でヴァンサン・ブサールの演出・衣装、ヴァンサン・ルメールの美術というフランス人コンビで「椿姫」(5月16日)を観て、カヴァーニ演出に勝るとも劣らない感銘を受けた。

 つまりカヴァーニのスカラ座演出はイタリア人が描く「椿姫」だったということに気付かされたというわけだ。

 ヴェルディのオペラなのに、何を当たり前のことに驚いているのかと言われそうだが、この「椿姫」は、フランス人小説家(デュマ・フィス)が書いたパリを舞台にした小説をもとに、イタリア人(フランチェスコ・マリア・ピアーヴェ)が台本を書いて、イタリア人(ヴェルディ)が作曲したオペラだということだ。

 もちろんカヴァーニ演出がパリ社交界をミラノ社交界に移しているわけではないし、登場人物がフランス語で歌っているわけではない。

 それでもカヴァーニ演出は、イタリア人のイタリア人のための、イタリア人による「椿姫」であり、今回の新国立劇場の「椿姫」はそうしたやり方ではない見事な演出があることを私に示してくれたのである。

 まさにフランス人による「椿姫」だった。

「椿姫」 撮影:寺司正彦 提供:新国立劇場

 まず、第1幕のヴィオレッタのアパルトマン。薄暗い部屋は歪んだ背景と鎖の使用でいやが上にも退廃の趣きを増し、ヴィオレッタの衣装の深いボルドーカラーがこの女のただならぬ深淵を感じさせる(カヴァーニ演出では純白のドレスがまぶしい)。

 第2幕第1場でも背景がロールシャッハテストでもあるかのように変わっていくが、明らかに髑髏が浮かび上がってくる。もう死神はヴィオレッタを掴んで離さないのだ(カヴァーニ演出では陽光に照らされる麦畑の黄色や黄緑色が悲劇性を一層高める)。

 第1幕の2基のシャンデリアは2本の白いパラソルに変容しているが、決して結びつくことのない微妙な距離感を保って浮遊している。

 第3幕は穴蔵のような地下室を思わせ、ヴィオレッタはピアノの上に見せ物のように寝かされる。現実世界とは紗幕で遮断されヴィオレッタはすでに死界に入ってしまっている。

「椿姫」 撮影:寺司正彦 提供:新国立劇
(第3幕:紗幕によって現実世界と隔離されたヴィオレッタ)

 残酷なまでにひとりの女を死に追いつめていくサディスティックな演出だが、ヴィオレッタ役のベルナルダ・ボブロがまさにピッタリの配役だ。

 顔が小さくて小柄なスロベニア出身のボブロが苦しげに高音を歌い上げる。とても可哀そうで見ていられないほどだ。

 こんな生々しく悲しい「椿姫」があっていいのだろうか。5月19日火曜日19時、5月23日土曜日14時、5月26日火曜日14時にまだ公演がある。

                

(2015.5.20「岸波通信」配信 by 葉羽&三浦彰)

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