<soul-106> 細い指先
真野が先に口を開く。
「来月の頭に退院だって。通院してリハビリ続けるの」
「そっか・・・・俺は借りた分返して、来月も極貧生活だけど、まあ飯は食えるだろ」
真野は照れ臭そうにベンチの端を両手で掴んで体を前に傾げた。
大分張りが戻ったとはいえ、皺皺になってしまった手は若さよりやはりまだ病人に近い。
明も座ろうと腰を屈めると注意を受けた。
「まだ濡れてるよ。あたしもお尻濡れちゃった」
明は腰を浮かせて、真野に顔を向けた。
「着替える?」
「これくらい平気」
明はあらためてベンチに座りなおした。
真野はちょっと嬉しそうに頬を膨らませると
「それよりお母さん怒ってたよ?新翔君はいっつも『手ぶらですみません』て言って、持って来る気がないなら一々言わなくていいのに!って」
明は苦笑いがこぼれた。
真野の母親は異様に明を恩人扱いしてくれるが、基本的に母親が知らせに走ったにもかかわらずナースコールを押したことなど、明の細かなところが気にくわないらしい。
中学の頃の真野の同級生の兄で、勉強をみてもらっていたお兄さんだと嘘をつく真野に、曖昧に首を傾げながらもお茶やお菓子でもてなそうとする母親の姿は、団地暮らしの頃の隣のおばちゃんを思い出して、いつもちょっと笑いたくなる。
緊急時に家族が出払う度に、預かってくれた隣の涼子おばちゃんは、五十も超えて子育ても終えた独り暮らしだったが、根が世話好きのためか、あれやこれや小言を言いつつ小さな明を気に掛けてくれた。
真野の母親を見ると、涼子おばちゃんがおやつに出してくれた、あったかくて香ばしいおやきの匂いを思い出す。
「お母さんにも心配かけ過ぎたからな。少しは話聞かないと。
いくら栄養いれても追い付かなくて、看護師さんもお医者さんも困らせてたみたい。生霊って相当エネルギー食うね」
真野は彷徨っていた頃のことを明確に覚えていた。病室ではおおっぴらに話せてはいない。
植えらているけやきの大木の新緑が、曇天に明暗となる陰りを見上げると、真野はぼそりと聞いた。
「あたしの前だとネクタイ、しないんだね?」
明は奥歯を噛みしめて答えなかった。あの晩のエルメスのネクタイは、誘導のアルバイトのチラシが貼ってあった電柱にそっと巻き付けて結んで捨てた。
会社ではネクタイはもちろん締めてはいるが、会社帰りに見舞いに寄る時も、真野に会う前に病院の待合室で外していた。
明は、いつもの台詞を繰り返す。
「飯食えよ」
「食べてるよ。食べれるようになったらみるみる体重が増えてくの。
ある意味試練だね」
明はおかしくなった。病状の回復に体重を気にするのは女の子特有だ。
すぐ隣にある真野の手を見下ろすと、桜色のピンク地に小花柄のパジャマの袖から突き出た指は、まだ折れそうなほど細かったが、皺と違って痛々しさは既にない。
リハビリに頑張っている姿も何度か見ている。パジャマも健康時のものなのでぶかぶかだが、焦らずとも、全てが元通りにはならなくても体力は戻る。
明は雨上がりの湿った空気を思いっきり吸い込んで、背に手を当てて反り返り伸びをする。関節が軋むのは真野より自分の方かもしれない。
真野はこの日初めて口にした。絶えず誰かはいたので、表だって会話できなかったことを。
「本当はね、毎晩寝る前に考える。会えないのは耐えられんの。
でもやっぱりいないと思うと・・・・」
真野とは意識は違うが、どうにも払拭し切れないものがあったのは明も又同じだ。
雲間から射し始めた光の筋に照らされ、植えられたパンジーや水仙がここぞとばかりに色とりどりに咲く庭の景観は、沢山のものがごっちゃになったあの光景を思い出させる。
真野は体裁もないためか、ようやくこの時になって本当の理由に触れた。
「あたしこんな性格だから、敵作りやすいんだよ」
ぶっきら棒に言う言葉は、息を飲み込んで吐いてを繰り返して、口調とは裏腹に無造作にはできない告白だった。
【2018.4.19 Release】TO BE CONTINUED⇒