<soul-105> 奏
電話をするのは久しぶりの相手は、スマートフォンの通話のスピーカーが音割れしそうな大声でまくしたてた。明は声を絞れと何時も思う。
「お前から電話してくんの珍しいな!何かあったか!?」
「いやなんも」
素っ気ない返事になるのはいつものことだが、通話相手はいつもの明の調子に大分落ち着いたのか、声量も小さく心配そうな声に変わった。
「遠慮すんなよ?」
フッと明は微笑むとスマートフォン越しにお伺いを立てる。
「珠ちゃんに会いに行っていい?」
「断る!!あいつ今欲しいものだらけだからさ。
お前買うからさあ!?与えればいいってもんじゃねえよ!?
珠美目当てじゃなきゃ、飯食いにならいつでも来いよ」
「分かった・・・・・奏」
「だーから呼び捨てやめろ!これでも一児の父親だぞ」
「自分の名前の意味知ってるか?」
「・・・『奏でる』だろ」
「いい音だよ」
「?気色悪いな。変なもん食ったのか?・・・変な気起こすなよ?」
幾分荒い息遣いが電話を通して気配を探る語尾に、明は笑って即答した。
「しねーよ」
「お前は愛されキャラでいつも気に留められてたからさあ。
今は生意気だけど」
「そうなん?覚えないけど」
訝る明の声に、相手は苛立たしそうに、反面甘い感情が声の奥にしのぶ。
「お前は見てないからな。生まれた時を。俺はちゃんと見てたぞ」
電話の向こうにある、目尻が下がって笑っているだろうその顔を思い浮かべると、鼓膜の奥で響く声に瞬間悪夢が過る。
扉が開け放たれたままの風呂場のオフホワイトの壁に、生き物の色を誇示する真っ赤な鮮血がぷつぷつと飛び散る。
幼い明が呆然と見る血の丸い染み。目を閉じても瞼に赤が主張して焼きついた。
尋常ならざる色に、瞑ったままの薄い瞼も含めてバクバクとした体中が鳴る音を聞いて、初めて自分の動揺を知った
恐怖が復活した訳では無かった。今までの道のりを思い、明は泣き出しそうな衝動をグッと喉にしまった。まだ目は離せない。
その分、こいつには愛するものが増えた。
適当に話を切り上げ通話を切ったが、切れる直前まで
「何かあったらすぐ言えよ!」
そう自らを振り返りもしないで心配してくれた。
坂道を上り切り、病院の前に着いた時には、背中が汗でじっとりと濡れてはいたが、植え込みのツツジの赤が目に飛び込んでくる。
動悸を伴う血の色と、やや似ている透けるような赤は、むしろ穏やかさを内在し、さやさやと風に揺れて出迎える。
雲は上空高くまだ渦巻いてはいるが、嵐の後の生あたたかさが風に混じっていた。
病室を訪れると、真野の母親から教えられて明は中庭に出た。
遊歩道の中間にある、休憩用の小さな白塗りの木製のベンチに座って、ふうふう言いながら、病衣ではなく私物のパジャマ姿の真野は額の汗を袖で拭い、もう車椅子も松葉杖もいらないらしい。
真野と自分がどんな関係かは、母親は目覚めの場に居合わせた恩人扱いでまだ問いただしてはこなかった。
明にとってはもっけの幸いだが、いずれは聞かれるだろう。真野と口裏を合わせなければならない。
昏睡状態に点滴だけで保たれていた筋肉は衰えて、歩けるまで回復するのにリハビリに約一カ月を要した。
萎えた足はもう体重を支えられるまでに落ち着いている。
明はベンチに向かいながら、付近に人が出ていないのを確かめて声を掛けた。
「リハビリどうよ?」
「生活費どうよ?」
驚きもせずすぐさま切り返す真野とのやりとりは、もう挨拶の符号のようになっている。いつも若干の緊張感を孕むが、同時に笑顔が出る。
【2018.3.11 Release】TO BE CONTINUED⇒