<soul-104> 真野の目覚め
ぴくりともしないベッドの上掛けを一瞥した明は藪にらみで奥歯を噛んだ。
『王子様の接吻』・・・恥ずかしさで顔から火が出る想いがした。
キスで目覚めさせるなんて親もいるのに論外だ!正気の沙汰じゃない。
『荒唐無稽な人騒がせは置いておいて』そう自分に言い聞かせて喚きたい衝動を胸にしまうと、恐る恐る真野の頭がある方へ歩み寄った。
想像していたよりはるかに悪かった。
真野は呼吸器のマスクで顔を殆ど覆われていたが、点滴のような管や他にも色々な物でつながれている。弱り果てた頬はこそげ落ち、マスクの方が大きい位で、心なしか皺が刻まれているようにも見える。
何より死んだように眠っている。
真野の生霊に会っていなければ、呼吸音の機械の音を聞かなければ、死んでいると錯覚しても不思議ではない。
布団の下ではあったが、明は思わず真野の手を探って布団から引き出した。
骨ばかりになって皺皺の手は、これが真野の手とは俄かには信じ難かった。
反対側には尿のパックも下がっているようだとベッドを覗きこんで、深刻さを今更ながらに思い知らされる。
ただ、皺皺の真野の青白く血管の浮いた手は、死相も漂うか細い見たこともない手なのに、あの体温のない真野と同じ感触がした。
真野が目覚めて誰か分からないと困ると思い、一応のスーツ姿にノーネクタイで来たのだが、どうやら気の回し過ぎだったと、目覚めは遠く非現実的にさえ見えた。
明は、刺激を与えるといいとよく聞くのを思い出して、片手で真野の手を下から支え、もう一方の手でさすったりつねったりしてみたがやはり反応は無い。
もっとしっかりした、白く霞んでも肉のついた手がすでに懐かしい。眠り姫とは程遠い姿に、目覚めさせる手段があるとはやはり到底思えなかった。
思った以上に動揺している自分に、又あらためて出直そうと、そっと布団に真野の手を戻し脈拍計の波を見る。生きてはいるのだ。
明は真野の酸素マスクを見ながら、思わず口走っていた。
「お嬢さん、お手をどうぞ」
何の反応もない。
そらそうだろうと、胸の中で呟いて、これ以上母親に気を遣わせる前に退出しようと、ベッドから離れるために真野に背を向けた。
すううっと空気が頬を掠めた気がして、一瞬訝って窓の方を見たが、窓ガラスは閉じていて燦々とした初夏の陽射しを注いでいる。この部屋は完全な室温調整もされているのだろうが、白壁は冷たい。
歩き出そうとした明は、ピと何かに引っかかった感覚がした。
気のせいか、明がふと振り返る前に突如、がごんゴロゴロという大きな物音で目が釘付けになる。
目の前に真野の母親が今買って来たばかりのペットボトルのお茶を床に転がしたまま絶句している。次の瞬間母親は叫んでいた。
「真野!!」
振り返った明のジャケットの裾を、今触っていたばかりのひ弱い指が摘んでいる。
次の瞬間だらんと落ちた手に焦ったが、明は真野の顔を見た。マスクの下で仏像の半眼のようにうっすらと線のように細く目を開けた真野が居た。
「すみません、先生呼んで来ます。もうちょっといてあげて」
叫ぶように懇願してバタバタと廊下を走り去る母親のスリッパの音を聞きながら、明は呆然と、つい先ほどまでの機械のコシューコシューっとした一定の規則的なリズムに、空調の中でも喘ぐように小さく自発呼吸の音が混じっているのを聞いて、念のためにナースコールを押した。
港町付近の駅で電車を降りて、ターミナルからバスに乗る。
病院前に停留所はちゃんとあるが、一つ前のバス停でバスを降りると、丘に続く緩やかな坂道の公道を歩いて上る。
初めは心の準備のために歩き出したのだが、勾配はちょっとした運動にもなるこの道を、通い慣れ始めている。
だから今日はジーンズと長袖Tシャツのラフな服装に、携帯電話を掛ける余裕もできた。
【2018.3.1 Release】TO BE CONTINUED⇒