<soul-103> 汐花町総合病院
軋む廊下を慎重に忍び足で退去しようとする明に、須川はふと玄関先の下駄箱の上に置いてあった、前日に買い込んだ大量の朝食用の菓子パンやパックの入ったコンビニの袋の中から、おにぎりの一つを取りだして明の背中に声を投げた。
「新翔!!・・・これも食え」
アンダースローでひょいと須川が投げたおにぎりは放物線を描いて、振り返った明の手元に綺麗に落下した。
わたわたと三角形のおにぎりを取り落とさないようにキャッチした明は、軽くおにぎりを頭の上にかざすと
「サンキュー」
泣きそうな笑顔で、謝辞を表した。
初めて見る心からの明の礼に、眠かった筈の目を丸くした須川は
「現金な」
ボヤキながらも、渋々だった態度も忘れて口を大きく開けて笑った。
前日までの明なら確実にしていた筈の「施しはごめんだ」と逆切れすることがなかった。
鞄を持つことにした。財布の軽さから、通勤でも身軽さを優先させてここ数週間鞄を持たずにいた。
気付けば明でさえも恐いもの知らずに思える。これでは駄目だと、クローゼットの脇に眠っていたビジネスバックを引き出してから、やっと週末の土曜日に会社が休みに入って、開業時間をネットで調べ病院へと向かった。
汐花町総合病院は、総合とは言え中規模クラスの病院で、汐花町の海を望む小高い丘の上にあった。
緑あふれる植樹が初夏の葉を重ね、入口付近の石垣の植え込みには丁度盛りの真っ赤なツツジが咲きこぼれていた。
ツツジの赤は明の胸をキュッと締める。生き物の赤だ。
だが、花の甘い入り口を通り抜け、午前中は外来もまだ開いている病院の受け付けで、名字だけでなく下の名前も伝えて部屋番号を聞いた。
受付事務の女性職員は、すんなりと病室を教えてくれた。
怪しまれるかと思い、どれくらい入院しているかは気になったが聞かなかった。
去り際に顔を上げた受付の職員の目が、一瞬疑わしげに見えて怖気付きそうになった。ただでさえスケべな意味はなくともややこしいことこの上ない関係なのだ。
エレベーターに乗り4階の入院棟を目指す。調べようと思えば珍しい名前なので、ネットの新聞記事や色々と調べる手段もあったのかもしれないが、足どりを追う気は明には無かった。
看護師の詰所を過ぎると、閑散とした白に築年数分の黄色がかった廊下は音を吸収する。目当ての部屋を探し当て、大きく扉が開いた4人部屋に入室すると、手前の右側壁に、一人の婦人がベッド下のボロボロの簡易ベッドの上に腰かけて、うとうととしていた。
その先の右奥ベッドの頭の方からは、機械が密に置かれた下の方で、コシューコシューと規則的な音が響いてくる。
明が遠慮がちにベッドの足もとに踏み入ると、気配に跳ね起きた婦人は立ち上がって目を見開いた。
「突然にすみません。真野さんの・・・お見舞いに参りました。
手ぶらで申し訳ないんですが」
明はとっておきの余所行きの社会人面で婦人に頭を下げると、真野の母親は急に泣き出しそうに眉間に皺を寄せて、ふるふると首を振って真野である筈のベッドの頭の方を振り返った。
「覚えててくれただけでいいのよ」
そう言うと、軽く会釈して、
「ちょっと待ってね。今椅子と、ああ、後お菓子もあるのよ。
しばらく、しばらく待ってね。お茶を買ってくるから」
「お気遣いなく」
返答も耳に届いていないのか、真野の母は慌ててガマ口財布をひっつかみ廊下へとぱたぱたスリッパのまま出て行った。
胸を撫で下ろす。
てっきり怪しまれると思い、色々考えて用意してきた嘘八百のセリフをそらんじる必要もなく、いとも簡単に二人きりになれた想定外で、心の軽さが不意に福喜の言葉を蘇らせた。
【2018.2.18 Release】TO BE CONTINUED⇒