<soul-29> 空虚な穴
明は覚えの無い単語に思わず顔をしかめて聞き直した。
「うち?……弁?何?」
民はさして気に止める風ではなく、逆に親しみの込もった声で
「若いと知らないのかしら……うちの娘もよく、
『それ何語?』って聞き返すのが多かったわ」
そう言うと思い出したのか、フッと柔らかな表情になる民に、一瞬気を抜く明だったが、次の瞬間には又民には寂しいやるせない顔が戻って来てしまっていた。
「………」
明が言葉を失していると、民は自分に語りかける様に
「外面がいいって言うのかな……内でしか本音出せないの。
だからさっき言ってたあれが、必ずしもあの人の本心かって言うと……
それはわからないのよ」
明はただ黙っていた。
民が話しているのが、夫の佐山の事であるのは明白だった。
「娘の事でもそう……私達の娘ね……
あの人の反対を押し切って、結婚したの」
「…………」
明は頷かなかったが、先程の佐山の話を急速に思い返していた。
民は続ける。
「それだってもう何年も前の話で、表面上はうちの人も、もう許してる素振りだったわ。
特に娘の旦那さんの前やその親御さんの前ではね。
普段から私が何か相談なんてしたって上の空で……この人何でこんなに私……って言うより家の事に無頓着なのかしらって思ってた位なの……
でも……今回この世に残った時にわかったわ。
今更娘の旦那さんが頼りにならない、このまま置いていったらあの子はダメに、厳しい道を行かざるを得なくなるなんて言い出すのよ。
あなた何を見てきたのって言いたくなったわ。
娘の旦那さんは、小さな会社で車の修理工をしてて、今の不景気だし、必ずしも裕福な家庭は望めないかもしれない。
けどね、娘の事をすごく大事にしてくれてて、今時珍しい程、娘を捨てたり家庭から逃げたりする様な子じゃないの。
何をやっても食べて行ける、家族が困る様な事にはならない人だってわかったから、私だってうちの人に取り成す役だってしたし、それを最初はどうでも、あの人も十分承知した筈だった。
もちろん私には遠慮がないから、その旦那さんの悪口なんかもちょっとは言ってたわ。
でもそれは、一人娘をお嫁に出した、父親の感傷……悪く言うとひがみ、みたいなものだと考えてた。
現にその義理の息子にもここ一年はすこぶる愛想が良くて、
『君だから任せられる。もう何も心配する事がない』なんて調子のいい事言ってたから……
…なのに………あの人は残ってしまった……
その理由が、『任せられない』って………私達はもう死んでるのによ?
あの子にしてやれる事なんて、その旦那さんと比べるのも馬鹿らしい程何も無いのに………」
民は、耐え難い様子で自分の両腕を抱き締める様に強く掴むと、目には見えない空虚な穴を見つめる様に前を見据えて
「その時………わかっちゃったの私は。
この人にはキャパシティが無いんだって。
度量が無いのよ。信じたり受け止められるだけの。
それがはっきりして愕然としたわ。
何がって、『じゃあ、今までの私達は?私達が築いてきたものって一体何だったんだろう?』って……疑問を持っちゃったのよ。
それが多分私が残ってしまった理由」
【2009.1.6 Release】TO BE CONTINUED⇒