岸波通信その92「最後の会津武士」

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岸波通信その92
「最後の会津武士」

1 武士道精神

2 郡長正~母からの手紙

3 サムライの意地

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  Last Samurai 【2016.10.6改稿】(当初配信:2003.11.29)

「人も桜もいつかは散る。
 吐息の一つ一つに、茶の湯の一杯に、敵の一人一人に命が宿っている。
 それを忘れてはならない。それが武士道。」
  ・・・映画『ラスト サムライ』より

 2003年12月6日から、トム・クルーズ主演の「ラスト サムライ」が日米同時公開されます。

 この映画は、1970年代、アメリカ式の近代戦術を伝授するため明治維新政府に招かれた南北戦争の英雄ネイサン・オールグレン大尉(トム・クルーズ)が、政府軍に反旗を翻した反乱軍の大将と出会って捕虜となり、やがて、死さえもいとわない武士道精神に感銘を受けて、自ら行動を共にしていくというストーリーです。

 この役作りに一年をかけたというトム・クルーズや渡辺謙、真田広之が「サムライ魂」をどのように表現してくれるのか、非常に楽しみな映画です。

映画「ラスト サムライ」

 ところで、映画においては、勝元盛次(渡辺謙)という架空の反乱軍が登場しますが、維新政府と戊辰戦争を戦った会津の人々にとっては、過去の記憶が投影され、共感を抱かずにはいられないでしょう。

 ということで、今回の通信は「武士道精神」。そして、それを守るために弱冠16歳で死んでいった最後の会津武士…郡長正についてご紹介します。

「ラスト サムライ」のモデル?

 映画「ラスト サムライ」では、トム・クルーズ演じるオールグレン大尉が反乱軍と行動を共にすることになりますが、その話同様、会津武士と一緒に戊辰戦争を戦った外国人がいたことは、あまり知られてはいません。

 その人物の名はヘンリー・スネル、日本名を平松武兵衛といいます。

 彼は、オランダ公館に勤務していたプロシア人で、慶応3年に会津藩の砲術指南役に招かれ、若松城下に屋敷を与えられました。

 戊辰戦争でも会津方に立って参戦しており、越後戦線にも従軍しましたが、会津敗戦後、消息を絶ちました。

 こんなエピソードもシナリオの参考にされたのかも知れません。

 

1 武士道精神

 映画「ラスト サムライ」では、武士道精神を次のように解説しています。

 サムライの哲学では、武術で頂点を極め、武勇においてひるむことなく、忠義において揺らぐことのない完璧な武士となるためには、人生の全てをその哲学に捧げなければならないとしている。

 その理念を実践するための精神的基盤は、「義、礼、勇、名誉、仁、誠、忠孝」の七つの価値観であり、完璧なるサムライは、外の何よりも忠誠を尽くすことに完璧であり、あらゆる決断を知恵、条理、正しさ、主君の利益に基づいて下し、私利に惑わされることは一切無い。

 ふーむ。海外から見た“武士道精神”…見事に分析されていると思いませんか?

 でも、少し足りないような気がします。

 これらの理念が実現されない時に感じる感情…そうです「恥」です。

 武士は「恥をかく」ことを最も恐れ、時には恥をそそぐために命を捨てることさえ厭わなかったのですから。

白虎隊

 さて、会津戊辰戦争の悲劇といえば、飯盛山で力尽き、武士道に殉じて切腹した19人の少年白虎隊ばかりがクローズアップされがちですが、実際は、あらゆるところで戦争の犠牲者が出ていました。

 新政府軍が若松城下まで侵入すると、家老西郷頼母の一族を始め城下の婦人や老人・子供たちの多くが足手まといとなるのを恐れて自害したのです。

 自らの存在が主人の忠義の妨げとなるのを「恥ずべきこと」とする…武士の家族もまた「武士道精神」を培っていたのです。

 明治元年(1868年、維新政府軍に攻められた会津軍と新撰組残党は、最後の砦、鶴ヶ城に5千人で立て篭もりましたが、政府軍が小田山から放つ砲撃に犠牲者が増え続け、篭城一ヶ月で遂に落城しましす。

 そして、降伏の調印が行われると、戦後処理の焦点は、会津藩主松平容保公の“戦争責任”問題となりました。

 この時、藩主父子や全藩士の助命嘆願に奔走したのが、家老の萱野(かやの)権兵衛です。

 萱野権兵衛は、他の家老たちが自刃あるいは行方不明となる中で、単身、戦後処理の激務をこなし、最後には「戦争の責任は全て自分一身にある」として、明治2年(1869年)にひとり江戸城に登城、藩主・藩士たちを救うことを条件に全責任を被って切腹したのです。

 …何という“忠節”の人。

 結果、会津松平家は断絶を許され、藩士たちは不毛の地、青森県下北半島の斗南(となみ)に配流されることで、かろうじて死罪を免れたのです。

萱野権兵衛

 一命をもって会津を救い、武士道を全うした萱野権兵衛、享年42歳。…その壮絶な死と“武士としての生き様”を誰よりも深く心に刻んだ少年がいました。

 郡長正14歳。萱野権兵衛の遺子です。

 

2 郡長正~母からの手紙

 戊辰戦争の責任を一身に背負って自害して果てた萱野権兵衛には、長正という14歳の息子がいました。

 長正は、萱野家がお家断絶とされたことから、萱野姓を名乗ることが許されず、母方の姓である「郡(こおり)」を名乗っていましたが、文武両道に秀でていたことから、7人の会津藩子弟とともに福岡県豊津町にあった小笠原藩の藩校育徳館に留学できることになりました。

 そして学問・武道に精進して一年余りが過ぎ、九州での暮らしにもなれた頃、長正は、故郷会津の母あてに次のような手紙を送りました。

 母上様へ

 会津組は他藩のものに遅れをとらず頑張っています。大変に恵まれた環境ではありますが、ひとつだけ不満なのは、食事の量が少ないことです。

 激しい稽古の後など、皆ふらふらです。家が近い者はいろいろともらってくることも出来ますが、我々はそうはいきません。梅干しやたくあんだけという食事もしばしばです。

 ひとつお願いがあります。会津の干し柿を送っていただけませんか?仲間も喜ぶものと思います。

明治4年3月 郡長正

 これが現代であれば、何の変哲もない少年の手紙だったでしょう。

 育ち盛りの長正にとって、食事の量が足りなく感じるというのは当然のことであったし、また、会津の“身知らず柿”は、現代では皇室への「献上柿」になっているほど美味しい会津の名産品、その味が恋しくなったのも無理はありません。

 しかし、この手紙に対する長正の母、タニからの返信は、意外な…そして大変手厳しいものでした。

 長正へ

 そなたは、藩から選ばれて学問させてもらえる大変幸せな身です。斗南へ行った人々の苦労を知っていますか?

 痩せた土地に鍬をふるい、血みどろになって働いても米粒一つ採れず、雑穀を粥にしてすする悲惨な生活をしていても、誰も不平不満を言わずに頑張っているのです。

 会津の武士の子であるそなたが、食物のことをあれこれ言い、柿を送ってくれとは見下げ果てた根性です。

 再びこのようなことを言ってよこすなら、そなたは萱野権兵衛の子ではありません。

 この手紙を受け取った長正の心中はいかばかりであったか…。

 藩主を救うために全ての罪をかぶって自刃して果てた父の姿や最果ての荒地で武士の誇りを失わず生きようとしている藩士たちの姿がまざまざと浮かんだに違いありません。

 長正は、会津士魂を恥ずかしめた自分の軽率な行動に、顔を上げることも出来ぬほどに悔い入り、申し訳なさに無念の涙が止まらなかったといいます…。

福岡県豊津町

福岡県豊津町

 長正は、二度とこのような過ちを繰り返すまいと固く心に誓い、母の教訓をどのような時も忘れないために、この母からの手紙を肌身離さず懐にしまい込んで持ち歩くことにしました。

 しかし、ここで思いもかけない事件が起きます。

 育徳館で剣道稽古の着替えをする時に、不覚にもこの手紙を落とし、それを旧小笠原藩の子弟たちに拾われ、中身を見られてしまったのです。

 いつの世でも、子供たちの無邪気さほど残酷なものはありません。

 彼らは…

「会津武士の正体見たり!」

「会津の秀才、餓鬼道を行く!」

 ~などと、皆の面前で長正をからかったのです。

 その行為が、どんな結果を生むのか、その時は誰にも分かりませんでした。

 長正は一切の言い訳をせず、拳を握り締めて耐えていました。

 

3 サムライの意地

 この事件が起きて五日後の明治4年(1871年)5月18日、その日は奇しくも長正の父、萱野権兵衛が切腹して果てた命日でした。

 その日は、会津藩と小笠原藩の両藩対抗剣道仕合が行われることになっていたのです。

 双方6名での勝ち抜き戦。小笠原藩の代表選手は数十人のメンバーから選抜された精鋭陣。

 しかし…会津藩から小笠原藩へと留学したメンバーは総勢でも8名、うち6名で臨まねばならなかったのです。

 武道に秀でながらも、最年少で身体が小さかった長正は、シンがりの大将をあてがわれ、いよいよ仕合が開始されました。

剣道仕合

 数十名から選抜された小笠原藩のメンバーはさすがに強豪揃い。

 小笠原藩を1名しか倒せぬうちに会津藩の5名は次々に撃破され、最後に残った大将長正は、相手方5名を倒さねば勝てません。

 身体も小さい長正は色白で弱弱しく、誰もが小笠原藩の圧勝を確信しました。

 ところが…

 一旦、剣を握った長正は凄まじいまでの気迫を発し、構えて対峙しただけで、体格では圧倒していた小笠原藩のメンバーがその鬼気迫る迫力に思わずひるんでしまうほどであったと言います。

 その恐ろしいまでの気迫で次々に相手をなぎ倒し、遂に両藩の大将戦まで持ち込んだのです。

大将戦

 そして…その大将戦は、お互いの藩の名誉を賭けて、共に負けられぬ息詰まる戦いとなりました。

「でやぁーーーっ!」

 小笠原藩の大将が、面も砕けよとばかりの渾身の一撃を振り下ろしたその刹那…

「とぉーーーっ!」 

 長正の会心の払いが、見事、相手の胴に炸裂したのです。

 小笠原藩の一同は呆気にとられて放心状態となり、会津藩の6名は「これで会津武士の面目が立った」と抱き合って喜びを表しました…。

 そして、皆の興奮がまだ冷め遣らぬ中、長正はいつものように身支度を整えると、一足先に宿舎へと向かいました。

 やがて、外のメンバーも身づくろいを終え、宿舎に戻りました。

 しかし…長正の姿が見えません。

 皆が手分けして長正を探し回るうち、一人が宿舎の集会場へ差し掛かると、何とそこでは、一足先に帰った長正が介錯も無しに切腹をし、広がる血の海の中で既に虫の息の状態だったのです。

 驚いて駆け寄ると、苦しい息の下で長正は…

「母上に伝えてくれ。長正は父上の子らしい最後を遂げたと…」

 そこまで言って、事切れました。

 集まってきた会津藩の5名の仲間たちは、その場で号泣し、小笠原藩の同級生たちが驚いて駆けつけるまで、誰も泣きやむことが出来なかったそうです。

郡長正の墓

 その時、長正はまだ弱冠16歳。

 介錯無しに腹を切ることがどれほど苦しいものか…しかし彼は、死に臨んで躊躇しませんでした。

 明治元年の白虎隊の悲劇から3年…再び、若き会津武士が武士道を全うするために命を捨てました。

 それを人は“愚かしいこと”と嗤うのでしょうか?

 会津の古老は、この話について、次のように語っています。

 この話しを今のモノサシに当てはめて考えんでねえぞ。

 たかが食べ物のことでねえかとか、いじめだべとか…。

 確かにそういう面もあったがもしんにぇが、大事なのはな、昔の人はこのように「恥ずかしい」ということを知って、自分の名誉を大切にした事だわな。

 見てみらんしょ!なんぼ悪いことしても秘書がやっただの、聞いてねだの。平気で嘘ついてる奴がどれだけいっことか…。お金がもらえれば、買ってもいねえ肉を買った、買ったと嘘ついで、まったく恥を知らね世の中になっちまったわい。

 ま、今の世の中の偉いって言わちぇる人たちに、長正の爪の垢でも煎じて飲ませれば、さぞかしまっとうな世の中になるんで、ねえべが。

 白虎隊と同じ日新館で長正が学んだ会津の精神は、「ならぬものはならぬ」の精神だった。人は騙せてもお天道様は騙すことできね、「恥を知る」という尊い心なんだない。

会津若松市在住 齋藤純一

 小笠原藩では、藩をあげて郡長正の死を悼み、長正の墓を故郷会津に向けて建立し、その霊を弔いました。

 豊津町では、現在も毎年5月に「郡長正墓前祭」を執り行っています。

 そしてまた、会津士魂会も、毎年5月18日(萱野権兵衛・郡長正父子の命日)に、松山天寧寺において萱野家の供養祭を執り行い、彼らの武士道精神に敬意を新たにしているのです。

 郡長正、誇りのために命をかけたその短い生涯…彼もまた最後の、そして紛れもない会津武士でした。

 合掌…。

 

/// end of the“その92 「最後の会津武士」” ///

 

《追伸》

 不思議と会津出身者やゆかりの者が多いわが職場。6割以上が何らかの関わりをもっています。

 この僕も会津勤務は通算8年。

 人口210万人の福島県で会津地方の人口はたった30万人。ちょっと、異常な比率でしょう?

 しかも、会津でない人の出身地は、ニュージーランドであったり、中国湖北省であったり、カナダであったり…とてもグローバル。会津編は、詳しい人とそうでない人の落差が大きくて書き方が難しいと感じる今日この頃…。

 会津編も通算4編になりました。

 まだまだ書かなきゃいけないことがある…小原庄助とか。それから、食べ物。

 しかし、食べ物編は会津編に含めるか、ラーメン道で拡大するか難しいところ。そういえば、今回もcinema編から展開するか、会津編で書くか非常に悩ましかった内容。…重点の置き方が違ってきますからね。

 

 では、また次の通信で・・・See you again !

雪の鶴ヶ城

鶴ヶ城

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To be continued⇒“94”coming soon!

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【岸波通信その92「最後の会津武士」】2016.10.5改稿

 

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