岸波通信その179「エドガー・アラン・ポーの真実」

<Prev | Next>
Present by 葉羽
「November Girl」 by Blue Piano Man
 

岸波通信その179
「エドガー・アラン・ポーの真実」

1 ポーの謎の死

2 誕生と別離

3 生々流転

4 評価されなかったポーの文学

5 ポーを継ぐ者

6 魂の救い

NAVIGATIONへ

 

  Edgar Allan Poe  【2016.9.10改稿】(当初配信:2012.11.5)

「解かれることを望まない秘密だってあるさ。」・・・エドガー・アラン・ポー

 映画『推理作家ポー最後の5日間』を見てきました。

 舞台は1989年のボルティモア。闇夜を切り裂く悲鳴と共に凄惨な殺人事件が発生します。

 現場に急行した刑事が目にしたのは、絞殺された後で喉をかき切られた母と煙突に逆さ吊りされた娘の死体。

 そう…それはエドガー・アラン・ポーの小説「モルグ街の殺人」そのままの殺人現場だったのです。

推理作家ポー最後の5日間

 最初に容疑がかけられたのは、エドガー・アラン・ポー、その人。しかし、取調べ中に次の殺人が起こり、ポーは捜査に協力することになります。

 結局、この映画の中でポーは模倣犯である犯人に毒を飲まされて死んでしまうことになるのですが、実際の彼の死は謎に包まれており、未だ確たる死亡理由が明らかにされていません。

 ということで、今回の通信はエドガー・アラン・ポーの死の謎と彼の生き様に迫ってみたいと思います。

 

1 ポーの謎の死

 詩人であり“最初のミステリー作家”とも“最初のSF作家”とも呼ばれるエドガー・アラン・ポー(1809.1.19~1849.10.7)は、アイルランド系の米国人。

 その死については、未だに謎のヴェールに包まれています。

 1849年の9月、翌月に結婚式を控えたポーは、自身の選集出版準備のためニューヨークに向かいます。

 9月27日にリッチモンドを発ち、まる二日がかりの船旅の後にボルティモアへ到着すると、何故かそこに数日間滞在した後、足取りが途切れてしまいます。

 彼が発見された10月3日は、おりしもメリーランド州議会選挙の投票日で、投票所の一つとなっていた酒場にて、異常な泥酔状態となって倒れていたのです。

ボルティモア

 たまたま旧知の文学者に発見されて、そのまま病院へ担ぎ込まれましたが、4日間の危篤状態が続いた後、10月7日早朝に息を引き取りました。

 奇妙なことに、ポーは発見された時に他人の服を着せられており、発見されるまでどこで何をしていたのか分かっていないのです。

 映画『推理作家ポー最後の5日間』では、死の直前の5日間に小説の模倣犯の事件に関わり、結果的に命を落とすのですが、現実の「5日間」は“危篤状態でベッドの上”であった訳です。

 それにしても、結婚式を間近に控え、自分の選集も発行されるという幸福な時期に突然訪れた死…全てが不可解です。

 映画の中での最後の言葉は、模倣犯の正体を告げるための『フィールズ(刑事)に彼の名はレイノルズだと伝えてくれ』であったのですが、実際の彼の最後の言葉は『主よ、私の哀れな魂を救いたまえ』でした。

 今わの際に求めたものが、“肉体的な延命”ではなく“魂の救い”であったことが、一つのヒントかもしれません。

 ならば、彼の救われない魂は、どのように育まれたのでしょうか?

 

2 誕生と別離

 ポーは1809年にマサチューセッツ州のボストンで生まれました。

 両親は共にスコットランド系のアイルランド人。劇団の俳優同士で結婚し、兄のウィリアムとポーの兄弟、後に知恵遅れの妹ロザリーをもうけています。

 しかし、巡業で忙しい両親は幼い兄弟を育てることができず、彼らはボルティモアにあった父の実家に預けられていました。

 ところがポー一歳の時、父のデイヴィッドは巡業先で失踪し、二度と家族のもとへ戻ることはありませんでした。

 途方にくれた母エリザベスは、ポーだけを自分のもとへ引き取りますが、当時、お腹には妹のロザリーが宿っており、その出産準備のためには仕事を休まざるを得ません。

 極貧の生活の中、なんとかロザリーを出産しますが、エリザベスは結核を患い、ポー二歳の時に帰らぬ人となったのです。

 両親を失った幼い兄弟たちは、兄ウィリアムが父の実家に、ポーとロザリーは両親と親交のあった別々の家族に引き取られ、それぞれ別の人生を歩むことになりました。

ポーの生誕記念碑

(マサチューセッツ州ボストン)

 ポーを引き取った義父のジョン・アランは、ポーが六歳の時、輸入商の事業拡大のために一家を連れてイギリスへ移住します。

 しかし、事業は失敗。再び故郷のリッチモンドへ戻ることになりましたが、ここでも経営は思わしくなく、ポー16歳の時に会社は解散、自宅を売却しなくてはならなくなります。

 そこで折しも、義父ジョン・アランの伯父が亡くなり、一家には莫大な遺産が転がり込みます。

 アラン一家は再び金満家となって、ポーは1926年に開校したばかりのヴァージニア大学に進学できることになりました。

 ここでポーは、サラ・エルマイラ・ロイスターという女性に出会います。

 恋に落ちた二人は密かに結婚の約束まで交わしますが、それを快く思わなかったサラの父親によって二人は引き裂かれ、サラは無理やり豪商の息子に嫁がされてしまいます。

 失恋の痛手に加え、義父ジョン・アランの事業が再び失敗。学費を払えなくなったポーは、大学自体も退学に追い込まれました。

 …どうもジョン・アランという人は、あまり商才が無かったようです。

サラ・エルマイラ・ロイスター

(ポーの初恋の人)

 ポーは“食べるために”合衆国陸軍へ入隊し、やがて士官学校へ。入学まで3ヶ月の待機期間をどう過ごすか考えたポーは、かつて兄が引き取られて行った父の実家を訪れました。

 祖父は既に亡くなっており、実家にいたのは祖母と叔母のマライア・クレム、兄のウィリアム、叔母の息子であるヘンリー、そして娘のヴァージニアでした。

(この一家は祖母の年金と叔母の僅かな収入で非常に貧しい生活をしていた。)

 やがてポーは、軍隊から離れ文筆活動で身を立てる決心をするのですが、その時居候したのがクレア叔母の家でした。

(兄のヘンリーは結核のため1831年8月に死去。)

 いくつかの短編小説を発表した後、「サタデー・ヴィジター」誌の募集する懸賞小説で、短編『壜の中の手記』が最優勝作を受賞。やがて同誌の主筆編集者として迎えられます。

 さて、そこからは順風満帆な人生を歩みだすのか…。

 

3 生々流転

 せっかく成功への足がかりをつかんだポーでしたが、マライア叔母の娘ヴァージニアへの求婚を叔母から拒否されたことで酒びたりとなり、せっかく登用された「メッセンジャー」の職を投げ出してしまいます。

 最後にはマライア叔母が折れてヴァージニアとの結婚を認めるのですが、この時、ヴァージニアの年齢は結婚不可能な13歳と1ヶ月(オーマイガッ!)

(1833年9月に裁判所へ提出した結婚誓約書には、“21歳”と偽って記載した。)

ヴァージニア・クレム

(ポーの生涯の妻)

 その後のポーは、文芸誌の編集をしながら作品を発表するというスタイルで、いくつもの出版社を転々とすることになります。

 再就職した「メッセンジャー」誌は、ポーが主筆編集者となったことでみるみる業績が上がり、南部を代表する文芸誌に成長するのですが、オーナーと意見対立により退社。

 1839年にはニューヨークの「ジェントルズ・マガジン」の編集者を務める傍ら『アッシャー家の崩壊』や『グロテスクとアラベスクの物語』を執筆。しかしここも一年足らずで、オーナーとの意見対立により退社。

 新たに創刊された「グレアムズ・マガジン」の編集長に迎えられると、『モルグ街の殺人』のほか多数の評論を発表。わずか一年半ずのうちに同誌は発行部数3万7千部を誇る米国最大の雑誌へと成長します。

 ところが“好時魔多し”。1842年1月、自宅でピアノを弾いていた妻ヴァージニアが突然の喀血。結核の初期症状でした。

 妻のことが気がかりなポーは酒量も増えて仕事も休みがちに。結局、編集長の地位を追われて、ここも退社。

 文学的名声は得られたものの収入が伴わないポーの家庭は貧困に沈み、1847年1月、ヴァージニアは赤貧の生活の中で息を引き取りました。

モルグ街の殺人

(エドガー・アラン・ポー)

 ヴァージニアを亡くした後のポーは、はっきり言って“生活破綻者”のようです。

 これまでの人生でも、せっかく社会的地位が上向きになっても、些細なことからそれを投げ出し、貧困生活へ何度も逆戻りしています。

 ヴァージニアを失った年から、ポーは壮大な宇宙論を扱った散文詩『ユリイカ』の制作に傾倒しますが、翌年、この作品を基にした講演は明らかな失敗に終り、書籍も売れずじまい。

 一方、パーティで出合った複数の夫人たちに再三の求婚をしますが、アルコールを飲むと人が変わる彼の性格もあって、全て破談になります。

 そして訪れた1849年。たまたま仕事のために戻ったリッチモンドで意外な人物に遭遇。それは、青年時代に引き裂かれた最初の恋人、今は未亡人となっていたエルマイラ・ロイスターでした。

 ポーは彼女に何度も求婚を繰り返し、遂に受け入れられて結婚式を控えた1849年の秋、本当の“最後の5日間”を迎えるのです。

 

4 評価されなかったポーの文学

 今でこそ「偉大なミステリ作家」、「推理小説・SF小説の父」と呼ばれるポーですが、彼の人生をなぞった中ではもっぱら編集者としての成功や失敗談ばかりです。

 そう…彼が編集業の傍ら発表を続けた作品は当時の世界に全く評価されなかったのです。

 そんな人物が、いかにして作家としての名声を得るまでになったのか、ポーの作家人生を掘り下げてみたいと思います。

ポー詩集

(新潮文庫)

 小説家、編集者、評論家といくつもの顔を持つポーですが、彼は元々「詩人」を目指していました。

 “食べるために合衆国陸軍に入隊”したポーは、1827年7月に第一詩集『タマレーン、その他の詩集』を出版しています。

 除隊後、士官学校へ入学するまでの間、1829年12月に『アル・アーラーフ、タマレーン、および小詩集』と題した第二詩集を出版。1831年には第三詩集である『ポー詩集』を出版します。

 しかし、そのいずれもが社会的に好評を得られることはなく、詩で成功を収めるのは、晩年の1845年に「イブニング・ミラー」誌に発表した『大烏』によってでした。

(映画『推理作家ポー最後の5日間』の原題は『大烏』です。)

(大烏)

 ただし、彼の文学的名声を高め、各方面から絶賛を博したこの詩に支払われた原稿料は、たったの9ドルだったと言います。

 これは何を意味するのか…?

 彼の編集者としての能力や舌鋒鋭い評論家としての能力は別として、彼の文学は、同時代のアメリカにはほとんど受け入れられなかったのです。

 それ以前に発表された『アッシャー家の崩壊』や『黒猫』などのダーク・ロマンチシズムや“最初の推理小説”として名高い『モルグ街の殺人』、後のジュール・ベルヌやH.G.ウェルズに大きな影響を与えた最初のSF長編『アーサー・ゴードン・ピムの物語』などは、いずれも彼の死後1世紀を経てから再評価された作品群でした。

 これには理由がありました…。

黒猫

(エドガー・アラン・ポー)

 ポーの作品が評価されなかった理由の一つは、当時のアメリカの文学界で主導権を握っていたのは北部の出版社や評論家で、南部の文学が軽んじられていたこと。

 当時の文学作品の評価は倫理性、道徳性、啓蒙性の有無によって論じられることが多く、ダーク・ロマンチシズムと言われるポーの退廃的な作品とは全く価値観を異にしていたからです。

 そう…『アッシャー家の崩壊』(1839年)のように、生きたままの埋葬や美女の死と再生、得体の知れない病や書物への耽溺といった異様なテーマの作品は、当時、誰も見たことが無い“文学”だったのです。

 もともと清教徒が多い北部ニューイングランドで発祥したアメリカ文学の系譜を辿れば、ポーの“文学”が異様でおぞましいものに見えたことは容易に推測ができます。

 この空気は彼自身も気づいたようで、1840年に出版された作品集『グロテスクとアラベスクの物語』の序文で、自身の作品がドイツ的で陰惨だと批判されたことを記し、もうこの種の作品は書かないと宣言しています。

 その宣言にも関わらず、翌1841年に陰惨な殺人事件を扱った『モルグ街の殺人』が書かれたのは何故なのか?

 いえいえ、それこそがポーの熟慮した結論。つまり、自身の病的な作風を改めるため、作品世界の異様さはそのままでも、最後には理路整然とした解決を与える「推理小説」という新ジャンルをあみ出したのです。

 かくして“最初の推理小説”は生み出され、前半で推理材料を提供し最後に名探偵が犯人を暴くパターンや不可能犯罪とトリックなど、現代まで受け継がれる推理小説の枠組みが出来上がったのでした。

映画「シャーロック・ホームズ」

(コナン・ドイル原作)

 ポーの作品がアメリカで評価されなかったもう一つの理由は、彼の人物像が歪められて喧伝されたことにあります。その犯人はルーファス・ウィルモート・グリズウォールドという人物。

 彼は、自著を批判されたことでポーを逆恨みし、ポーが死んだ後にポーの「遺著管理人」の地位を手に入れ、ポーの人格を貶める回想録を記すと、これを強引にポーの作品集に収録するという暴挙に出たのです。

(ルーファス・W・グリズウォールド)

 「回想録」の中で、ポーはアル中でヤク中の下劣な人間とされ、その証拠としてポーの書簡を用いたのですが、この書簡自体、グリズウォールドの贋作であったことが後世の研究で明らかにされました。

(ポーが麻薬中毒で無かったことも明らかにされています。)

 本人には何の反論も出来ない死後の暴挙、しかも作品そのものでなく作者の人間性を貶めることで復讐しようとする…世の中には酷い人間もいるものです。

 ともあれポーの作品は、彼の死後ヨーロッパで、そして世界で認められることになります。

 

5 ポーを継ぐ者

 1844年12月、ポーの作品は、最初にフランスで『ウィリアム・ウィルソン』の翻案という形で紹介されました。

 その後、『黄金虫』や『モルグ街の殺人』など何点かの翻訳が行われると、これに注目したのがフランス象徴派の詩人シャルル・ボードレールでした。

 彼は、1848年の『催眠術下の啓示』を皮切りに1865年まで合わせて1600ページに及ぶポーの翻訳を行い、フランス象徴派の文学者たちに高く評価されるとともに、19世紀末のフランスの美意識に多大な影響を及ぼすことになります。

 一方、イギリスでは、ロバート・ブラウニングがポーの詩集『大鴉その他の詩』に高い評価を与え、1870年代以降はテニソンやオスカー・ワイルド、ハクスリー、コナン・ドイルなど多くの詩人・文学者が評論に採り上げたり影響を受けた作品群を発表しました。

 また、ロシアで翻訳された『告げ口心臓』や『黒猫』などに序文を提供したドストエフスキーの代表作『罪と罰』の描写にもポーの影響が及んでいるとされます。

シャルル・ボードレール

←彼の翻訳はヨーロッパにおけるポーの定訳となった。

 日本では、1887年に『黒猫』の翻訳が読売新聞に掲載されたのを皮切りに、明治~大正時代にかけて盛んに翻訳されましたが、特にラフカディオ・ハーンは、東大文学部の講義で折に触れポーを採り上げて作品を広める役割を果たしました。

 また、夏目漱石は、『黒猫』などを収録した本間久四郎の「名著新訳」に提供した序文の中で、ポーの“数学的想像力”に驚嘆するという評論を寄せています。

 平塚らいてうは「青鞜」でポーの短編10数作の翻訳を行っており、森鴎外も『病院横町の殺人犯(モルグ街の殺人)』など数編の翻訳を行ったほか、代表作『雁』の登場人物の振る舞いにポー作品の影響が強く現れています。

 そのほか、谷崎潤一郎の『刺青』、芥川龍之介の『詩作の哲理』、萩原朔太郎の『鶏』、大岡昇平の『野火』など、多くの文人・作品にポーの影響が及んでいますが、何といっても白眉は江戸川乱歩でしょう。

 ペンネーム自体がエドガー・アラン・ポーのもじりで、作風の強い影響を受けた『二銭銅貨』でデビューし、日本の推理小説の黎明期を支える作家となっています。

江戸川乱歩

 驚くべきことに、ポーの最初の長編である『アーサー・ゴードン・ピムの物語』は、今で言うところのSF小説でした。

 主人公は密航した捕鯨船が難破して別の船に助けられますが、その船でそのまま南極探検に向かうことになり、そこで大変な世界に入り込んでしまうのです。

 モチーフとなっているのは「地球空洞説」。地球内部は空洞で中心に小太陽があり、その世界に別の文明が発生している。北極と南極に開いた“大穴”から裏側の世界に入っていける~という理論です。

 「地球空洞説」自体は、17~18世紀にイギリスの天文学者エドモンド・ハレー(「ハレー彗星」の軌道計算者)やスイスの数学者レオンハルト・オイラー(「オイラーの多面体定理」)が提唱した理論ですが、この知見を冒険小説に仕立てたのです。

 1890年代にはジュール・ヴェルヌが『氷のスフィンクス』で、1990年代にはルーディ・ラッカーが『空洞地球』で、それぞれ続編ないし解決編を書いています。

オイラーの地球空洞説

 『アーサー・ゴードン・ピムの物語』によって、ポーは“SF小説のパイオニア”とも“最初のSF作家”とも呼ばれるようになりました。

 この空想科学小説(SF)というジャンルは、ジュール・ヴェルヌやH・G・ウェルズによって発展・継承され、レイ・ブラッドベリやアーサー・C・クラーク、アイザック・アシモフ、そして手塚治虫、小松左京まで繋がるのです。

 世界でポー作品が高い評価を受け、グリズウォールドによる「歪められた評伝」が作為的なニセモノであったことが分かってくると、ようやくアメリカでもポーを再評価する動きが現れます。

 多くの作家の後押しによって、ポーはアメリカの国民的文学者となり、1954年からはアメリカ探偵作家クラブによってポーの名を冠したエドガー賞が設立されます。

 また、ボルティモアのウェストミンスター墓地の片隅に、墓石も無いまま祖父のデイヴィッドと共に葬られていたポーの墓は、市民の呼びかけによって集めた寄付で、教会正面に新たな墓碑が建造され埋葬し直されました。

 生前は不遇であった、アメリカの偉大な文学者エドガー・アラン・ポーの名誉は、ようやく回復されたのです。


 

6 魂の救い

 さて、ボルティモアで謎の死を遂げたエドガー・アラン・ポーの死の真相は、今も明らかになっていません。

 広く信じられている説は、当時の選挙で立候補者に雇われたならず者が旅行者や浮浪者に無理やり酒を飲ませて投票所に連れて行き投票させる“クーピング”という不正がまかり通っており、ポーもその犠牲になったのだという説です。

(発見された日は、メリーランド州議会選挙の投票日だった。)

 いずれにしても、異常な泥酔状態であったのは事実。自らアルコールを飲んだにしても、ならず者に提供されたにしても、何故彼は死に至るまで痛飲してしまったのでしょうか?

 気になることが三つあります。

 一つは結婚式の直前であったこと。二つ目は、場所がボルティモアだったこと。そして三つ目は最後の言葉「主よ、私の哀れな魂を救いたまえ」("Lord help my poor soul")です。

エドガー・アラン・ポー自然史博物館

(フィラデルフィア)

←ポーの生前の住居の一つを保存・使用している。

 ポーは死に臨んで“命乞い”ではなく“魂の救い”を求めました。

 自分の作品が不当に社会に評価されなかったことへの恨みで、魂の救いを求めたのか…?

 いいえ、彼には分かっていた筈です…たびたびチャンスを得ながら、その度に自分の短慮で幸運を逃し、赤貧の生活を続けざるを得なかったことを。

 自分が原因であることが分かっているからこそ、たびたび溺れるほどの酒に浸って後悔していたのだと思います。

 そして、最後の場所はボルティモア…そこは特別な場所。

 13歳で妻に娶り、その後のふがいない人生に付き合わせることになってしまったヴァージニアとの思い出の地です。

 彼女は年端も行かぬ頃からポーひとりだけに尽くし、極貧の生活の中にあっても決して彼を責めたりせず、支え続けて来た人物でした。あれだけ洞察力に富むポーが、その献身に盲目であったはずはありません。

ポーとヴァージニア終の棲家

(ニューヨーク/ブロンクス区)

 彼女の死後、ポーはさらに酒びたりの度合いを増していますが、ヴァージニアの苦労に報いることが出来なかった、深い後悔と自責の念に押しつぶされそうになっていたのではないでしょうか。

 ああ、それなのに自分は別の女性に結婚を迫り、心の傷を無かったことにしようとしている…。

 ポーは、ヴァージニアとの思い出の地~ボルティモアを去ろうとしても、既に足が動かず、良心の呵責に耐えられなくなっていた…最後には神に祈るしかありません。

「主よ、私の哀れな魂を救いたまえ」

 “ポーの命を奪ったのは、ヴァージニアへの愛と悔恨”…そう思えてなりません。

 

/// end of the “その179「エドガー・アラン・ポーの真実」” ///

 

《追伸》

 ポーが23歳の時にマライア・クレム(叔母)やヴァージニアと住んでいたボルティモアの家は、今は「エドガー・アラン・ポー博物館」として運営されています。

 そしてここには、エドガー・アラン・ポー協会の事務所が置かれています。

 また、ポーとヴァージニアの終の棲家となった、ニューヨークのブロンクス区の木造小屋も現存しています。(2012年11月現在)

 写真を見ると本当に小さな住居で、ポーとヴァージニアの晩年のつつましやかな生活が偲ばれるようです。

 この歳になって分かる事ですが、長く連れ添った伴侶というのは本当にありがたいもので、連れ合いに先立たれるともう一方が後を追うように亡くなることが多いというのも頷けます。

(特に、妻に先立たれた夫には多いらしい…。)

 ましてや、自分がポーの立場だったとして、献身的に尽くしてきた妻に何も報えずに先立たれたことを考えると、決して癒えない大きなトラウマが心に残ると思います。

(だからといって、死のうとは思いませんが。)

 ポーは家庭人として情けない男でしたが、その心はガラス細工のように純粋で傷つきやすかった人物だったと思います。しかし、それを白状することを潔しとしなかった。

「解かれることを望まない秘密だってあるさ。」

 彼はあの世で、自分の言葉を繰り返しているのかもしれません。

 

 では、また次の通信で・・・See you again !

再建されたポーの墓

(ボルティモア)

管理人「葉羽」宛のメールは habane8@ybb.ne.jp まで! 
Give the author your feedback, your comments + thoughts are always greatly appreciated.

To be continued⇒“180”coming soon!

HOMENAVIGATION岸波通信(TOP)INDEX

【岸波通信その179「エドガー・アラン・ポーの真実」】2016.9.10改稿

 

PAGE TOP


岸波通信バナー  Copyright(C) Habane. All Rights Reserved.