岸波通信その178「いじめはあった」

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岸波通信その178
「いじめはあった」

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  Confession of the teacher  【2017.9.2改稿】(当初配信:2012.7.16)

「自分も見て見ぬふりをしていて、これも立派ないじめだと気づいたときは、本当に申し訳なかった。」  ・・・「大津市立中学校/中二いじめ自殺事件」の第二回アンケート調査より

 滋賀県警の強制捜査が入った大津市立中学2年の男子生徒が飛び降り自殺した事件は、まだ真相が見え初めて来た段階ですが、実にやりきれない気持ちにさせられます。

 特に、事件後、全校生徒に行われた第二回目のアンケートで「自殺の練習をさせられていた」など聞き捨てにできない情報が複数あったにもかかわらず、「報告すべき新たな事実は無い」として早々と調査を打ち切った「事なかれ主義」には怒りさえわいて来ます。

 ところで・・・数日前に、朝日新聞栃木版にこのような川柳が掲載されました。

 昭和にもいじめはあった 同窓会の返信葉書に 欠席と記す

昭和の風景

 そう、確かに「いじめ問題」は今に始まったことではありません。

 現在ほど陰湿化していないとは言え、多かれ少なかれ、どこの小・中学校でも普通にあったのではないかと思います。

 そんな中、数年前の会津地方のミニコミ誌「会津嶺」に、衝撃的なタイトルの記事が載っていたことを思い出しました。

 そのタイトルは「いじめはあった」・・・執筆者は現役の小学校校長先生でした。

 でも、その小学校での事件ではなく、校長先生がまだ子供だった昭和の頃の話です。

 深い感銘を受けた記事であったので、ここでご紹介します。

 いじめに合っていたのは、校長先生が小学校だった頃の同級生T子。

 母親を小さい頃に亡くし、幼いT子と二人のは父親の手で育てられましたが、夏はアイスキャンディ売り、冬は焼き芋を売って細々と生計を営んでいたのです。

 その貧困は、現代の子供たちとっては想像を絶するものでしょう。

 ツギハギどころか穴だらけの服で、洗濯さえできないのか、汚れきったものをいつも身に纏っていたのです。

 住んでいる藁葺きの家も屋根に草が生い茂り、いくつも開いた穴からの雨・露をしのぎながらの生活でした。

 当然、お昼の弁当を持ってきたことはなく、集金も滞り、遠足や修学旅行も行ったことはありませんでした。

昭和の風景

 こういうT子の話を聞くと、自分が同じ小学校だった頃の事を思い出します。

 多分、年齢的にそう違わなかったでしょう。誰もが貧しく、けれどもそれを「そんなに特別なこと」とは考えていませんでした。

 我が家でも働き盛りだった祖父が急逝した時、二十歳そこそこだった私の父は、祖母と二人の妹、そして母と幼子だった私を支えなければならなくなりました。

 大きな農家の蔵を借りて住むことになりましたので、窓もなければ便所もありません。

 そんな家庭は廻りにいくらでもあったのです。みんな貧しかったので、そんなことで「いじめ」にはなりませんでした。

 ところがT子の場合は違いました。

 いつもボロを着て汚い格好をしているT子と妹たちは、「きたない」「ばいきん」「くさい」「貧乏」と同級生ばかりでなく学校全体からいじめられたのです。

 そしてそれは、言葉だけに留まりませんでした。

 大きな穴の開いたT子の家の屋根から、石や木や虫や蛇まで投げ入れられたのです。

 いつ落ちてくるか分からないそうした物に怯えながら、三姉妹は身を寄せ合って耐えていました。

昭和の風景

 その校長先生は言います。

「『死』さえも考えたのでは…。子供ながらに私はT子の身を案じていた。しかし、私にはT子をかばう力はゼロだった。

 いじめのガキ大将が怖かったし、その当為の担任でさえ、いじめた子を指導もしなかったし、T子の心のケアもしなかった。

 世の中全体が心の貧しい時代だったのかもしれない。」

 時代が変わっても、「いじめ」自体の構図が変わらないことに慄然とします。

 いじめっ子たちの暴走を止められるのは、周りにいる同級生や担任であるはず。そこが全く沈黙することで、どんどんいじめが嵩じて行くのです。

 幸い私は、学校でいじめに合うことはありませんでした。同級生と比べれば一番貧しい家庭の一つだったにも関わらず。

 きっと、そんなことがあれば、別の同級生がすぐに先生に「告げ口」をし、熱血教師ぞろいだった先生たちはたちどころに乗り出したでしょう。

 また、私たちのガキ大将は「正義のガキ大将」でした。「ナカちゃん」と呼ばれた彼は、どこのクラスに揉め事があろうが駆けつけ、「「決して暴力は振るわずに」、正義の眼光ひとつでトラブルを収めたのです。

 ところが、T子の学校も大津中学校もそうではありませんでした。

昭和の風景

 「見て見ぬふりをする」ことによって、少年時代のトラウマを負った校長先生が40代になった頃、同級会の案内が舞い込みます。

 同級生の誰もが「T子は欠席するだろう」と考えたそうです。

 しかし…彼女は美しく成長し、堂々とした態度でみんなの前に現れたのです。

 校歌を斉唱し、宴が進むと、一人ひとりの現状紹介がはじまりました。

 そして、T子さんの順番となり…

「私の小学校時代は、楽しい思い出はありません。いじめられてばかりいました。

 でも、死のうと思ったことは一度もありませんでした。

 それは、将来に対する夢があったからです。

 この会津を出て、東京で就職し、新しい人生を切り開いていきたいと、ずっと思っていました。

 中学校を卒業するとすぐに東京に行き、就職しました。

 そして今、結婚した夫と子どもと毎日幸せな日々を送っています。」

 ~と誇らしげに語り、最後に「父が好きだった歌を、ここで歌わせてください」と、一節太郎の「浪曲子守唄」を歌い始めたのです。

「♪逃げた女房にゃ未練はないが、お乳欲しがるこの子がかわいい…」

一節太郎

(浪曲子守唄)

 歌が流れ始めると、同級生たちはお互いに顔を見合わせました。

 そして最後の

「♪ひとつ聞かそうか ねんころり~」

 同級生たちが総立ちになります。

 この日一番の拍手が沸き起こり、みんなの目には涙が光っていました。

 誰もがT子さんを取り囲み、「あの時はごめんなさい」と涙ながらに謝りました。

 同級生の一人であった校長先生も心がすがすがしい想いで満たされ、忘れるとのできない思い出となりました。

「こんな実話を小学校の全校集会の中、校長講話で話してみた。時代は変われど、私のつたない話でも涙ぐむ児童、教師がいた。」

 彼の言葉は、聞く者の心に響いたのでしょう。

 誰に恨みごとを言うわけでもない、誰を非難するわけでもない…T子さんの熱唱を思い浮かべると胸が詰まります。

 そして、過去の大きな過ちを告白した校長先生の勇気にエールを送ります。

「自分も見て見ぬふりをしていて、これも立派ないじめだと気づいたときは、本当に申し訳なかった。」

 学校と教育委員会に隠蔽された大津市立中学校の第二回アンケート調査の中に、こうした生徒の言葉が埋もれていたことに、せめて救われる思いがします。

 

/// end of the “その178 「いじめはあった」” ///

 

《追伸》2003.7.31

 そんな私たちの数十年ぶりの同級会が、この夏に開催されます。

 私は4クラスあるうちの一つのクラスの代表幹事なのですが、日本中にちりじりになっている同級生たちの連絡先を調べるのに大わらわ。

 女子の方は割と県内に残っているケースも多いのですが、男子の方を探すのが容易な作業ではありません。

 思えば、23年前にやった同級会でも幹事をやっていました。クラス委員でもないのに。

 そう、うちのクラスの委員長は、あの「正義のガキ大将」。彼の行方が全く掴めないのが残念です。

 私たちの中学校は小学校からの「持ち上がり」に近かったので、小学校・中学校の友達はほとんど重なっています。

 小学校低学年の頃は、かなり貧乏な生活をしていましたが、その後に両親の事業が成功し、中学の頃には人並みの家庭になっていました。

 そうか、アイツも来るんだな・・・一緒にラーメンを食べてスープを全部飲み干したら、「みんな、貧困家庭のオツユの減り方を見よ!」と言ったアイツ。

 いや、冗談だと分かっていても、この歳まで覚えているのですから、その時はショックだったのでしょう。

でも、そういう少年時代だったからこそ、今や“麺道十段”、現在の“ラーメン道”があるということです。あはははは!

 

 では、また次の通信で・・・See you again !

「新・僕達のラーメン道」

(岸波通信・外伝)

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To be continued⇒“179”coming soon!

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