岸波通信その149「心の手紙」

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岸波通信その149「心の手紙」

1 かまぼこ板の絵

2 日本一短い手紙

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  Letters of the heart 【2017.11.30改稿】(当初配信:2008.4.27)

「その一言で励まされ その一言で夢を持ち その一言で泣かされる」
  ・・・作者不詳

 友人の笑顔人君が「心の手紙」の案内をブログに書き、僕に優待券を贈ってくれました。

 「心の手紙」とは、福井県坂井市の有名な"一筆啓上賞"「日本一短い手紙」と愛媛県西予市の市立美術館(ギャラリーしろかわ)が募集している「かまぼこ板の絵」のコラボ展のことです。

 先週の4月22日(火)から、福島市 の「コラッセふくしま」で、この「日本一短い手紙」と"かまぼこ板の絵"の物語 コラボ展が開催されているのです。

「日本一短い手紙」と“かまぼこ板の絵”

コラボ展 in 福島

  笑顔人君が紹介してくれたコラボ展のこと、そして、改めて読み直した「日本一短い手紙」について書いてみたいと思います。

 

1 かまぼこ板の絵

 「日本一短い手紙」は、これまでにも通信で取り上げていますが、「かまぼこ板の絵」については知りませんでした。

 笑顔人君は、それを次のように紹介しています。

 

 猫の絵は、かまぼこ板に描かれた高槻市の中沢裕美さんの絵です。題名は「うららかな頃に」です。白血病で亡くなりました。22歳でした。第2回『かまぼこ板の絵』展覧会で感動賞を受賞しました。

 『かまぼこ板の絵』展覧会は愛媛県西予市城川町が平成6年から始めました。“日本一小さなキャンバス”かまぼこ板に描く展覧会です。城川町はかまぼこ板の産地です。

 裕美さんは絵を描くのが大好きでした。短大生の時、発病しました。自宅療養をしながらキャンバスに向かっていました。そんな生活をしていた時、『第1回かまぼこ板の絵展覧会』を新聞で知ったようです。

 中沢さんのご両親が裕美さんの応募を知ったのは主催者の「ギャラリーしろかわ」から届いた礼状でです。最愛の裕美さんはすでに永久の旅に立っていました。7月7日の七夕の日の旅たちでした。

 百か日の法要後、ご両親が「ギャラリーしろかわ」に初めて訪れました。裕美さんの遺影を抱いていました。10,891点が展示されていました。娘が最後に描いた作品だからとご両親が1点1点、探しました。

 チッチャな、チッチャな、かまぼこ板の絵です。1万点近くの力作がギッシリ、陳列されていました。1つ1つ、覗き込むように見入っていました。時間は昼近くになっていたそうです。

 「あ、この絵」とお母さんの声。「そうだね、裕美だね」とお父さん。声を詰まらせていました。

 思わず胸が熱くなりました。

 こうした活動を行っていた「ギャラリーしろかわ」の浅野さんと「日本一短い手紙」を企画した丸岡町の大廻さんがたまたま自治体研修会で出会い、両者をコラボさせようと話し合ったのです。

 「絵」と「手紙」を組み合わせた“新しい作品”が次々に誕生し、昨年9月の京都を皮切りに坂井市、松山市とコラボ展が開催され、この4月に冒頭の福島市開催となったのでした。

 とある会場でのエピソードを、笑顔人君は次のように伝えています。

 

 ある会場での話しー。

 年配の女性が1枚の絵の前から動きませんでした。

 モンペ姿の女性、腰に手ぬぐいの男性が皇居に向い、ひれ伏している絵です。玉音放送を聴くシーンと思われます。

 下記の作品です。手紙は次のようにありました。

涙一つ見せなかった母さん
兄が戦死した時
いつ…どこで
泣いたの…

 参観の女性は「いつ どこで泣いたの。いつ、どこで泣いたの」と何度も、何度も、何度も読み返していました。母をだぶらせたのでしょう。涙をボロボロ流しました。

 60歳過ぎの男性が、ちょび髭の顔の絵に引き付けられていました。4日間も足を運び、ジーと見入っていました。

 手紙の内容はー。

親の職業欄に「土方」って書けなかったんだ。
高校生の頃。
父ちゃん…。かんべんな。

 玉音放送の絵にも、ちょび髭の作品にも涙の落ちた痕が幾つもありました。終ったあと拭くのに大変だったそうです。

 この文章に感動し、書棚から埃をかぶった「日本一短い家族への手紙」を引っ張り出しました。

 この本を買ったのが1995年の春ですから、もう13年もなるのですね。

 今、齢を重ねて読み直すと、昔はさほど気に留めなかった「手紙」が改めて胸に迫ってきました。

 以下、いくつかの「手紙」に感じた想いを綴ってみようと思います。

 

2 日本一短い手紙

 

 大切な夫へ

 三十数年間、殆ど単身赴任だった貴方。
 定年の日を心から楽しみにしています。

土田喜恵子(石川県 57歳)

 同級生の親友JUNが、今度はシンガポールからドバイへ赴任することになりました。

 海外事業部に配属された彼が、ジャカルタへ赴任したのは就職して間もない頃でした。

 当時の海外勤務といえば希望者殺到のエリート・コースで、そんな彼をまぶしく思ったものでした。

 しかし、やがて新入社員たちの意識が「ふるさと志向」に変わると海外勤務は疎んじられ、なかなか後任が見つからない状況になったのです。

 そして彼は、ジャカルタからケニアへ、そしてまたヨルダンへと長い海外生活を過ごすことになりました。

ヴィクトリア湖

(ケニア)

 ひと時は、家族を連れて行ったこともありましたが、その職業人生の大半は海外単身赴任です。

 彼を海外に送り出し、子供三人を育てながら家を守った奥さんの苦労は察するに余りあります。

 きっと、この「手紙」の作者と同じような想いで、一日千秋の時を過ごしているのかもしれません。

 

 父と母へ

 僕の足が不自由なのは
 誰のせいでもなく神様のいたずらです。

小池哲也(静岡県 26歳)

 家内の同級生に久しぶりに会ったら、足を引きずるように歩いていました。

 僕らが結婚して間もない頃、家に遊びに来た時にはなんでもなかったので、後で家内に聞いてみると、中年になってから足の骨が変形してビッコを引くようになったとのこと。

 こういうことは意外に多いらしく、彼女の場合、数センチも脚の長さが変わってしまい、手術をしなければ治らないというのです。

 ところが、そのことを最近友人になったハンドメイド靴屋のkannoenさんに相談すると、脚の骨を削るよりもそれを矯正する靴を作ればいいとのこと。

 うむ、確かに。

 実はkannoenさん自身が左右の足の大きさが異なっていて、足に合わせた靴を初めてオーダーメイドしたところ、普通に歩けるようになった事に感動し、「自分も人のためにこういう仕事がしたい」と靴屋に転進した人だったのです。

ファーストシューズ

(kannnoen)

←生まれて始めて靴を履く赤ちゃんのために
家族が心を込めて作る手作りキット。

 彼の仕事は丁寧で、三ヶ月をかけて型取り・仮靴・調整・本靴を仕上げていくのです。

 こうして靴をオーダーメイドした家内の同級生は、その靴を履いて、何と十数年ぶりに普通に歩けるようになったのです。

 しかも、見た目には、左右の靴の高さが違うということが殆ど分かりません。

 こうした矯正靴は、健康保険も適用になるとのこと。

 kannoenさんは、平成19年度の「うつくしまものづくり大賞・優秀賞」も受賞している靴づくりのエキスパート。

 同じような悩みをお持ちの方は、是非、彼に相談してみては?

 

 母へ

 里芋の煮っころがし、大好評。
 彼に嘘ついちゃったから早急に作り方、教えてね。

坪田宇都紀(福井県 35歳)

 家内と婚約中だった頃、いつもお昼時になると手作りのお弁当を届けてくれました。

 このお弁当の美味しいのなんのって!

 もちろん出来立てのホカホカ弁当だったこともありましたが、オカズの一品・一品の味付けが素晴らしい。

 特に、コロッケはプロ並!

 ああ、この人と結婚できたら、一生食べ物には困らないだろうと…。

 そのお弁当、実は作ったのが家内の母だったのを知ったのは結婚してからでした。(うむぅ)

 その後、その時のことを問いただしたら…

「何よ、ちゃんと私が作ったのよ。」

「だけど、おばあちゃんが作ってたって…」

「詰めたのワタシだもの。」

「ええー!」

 

 急須にご飯を詰めたお婆ちゃんを叱ったら
 “いつもすまないね”と言った。ごめん。

下村秀昭(東京都 36歳)

 料理名人だった家内の母。

 その母が、夫に先立たれて一人暮らしを続けるうちにどうも言動がおかしい・・。

 医者に診断を受けると、その原因はアルツハイマーでした。

 同じような境遇で老親の介護をされている方はお分かりの通り、その初期の段階においては、介護する方・される方とも地獄です。

 それは、アルツハイマーの治療薬が人間の凶暴性を発現させる副作用があるためです。

 そんな一年が続き、やがて安定期に入りましたが、ある日家内が実家に行くと、母が台所で呆然と立ちすくんでいました。

 テーブルには、刻んだポテトと玉ねぎ…。

 

 母は、あれほど得意だったコロッケの作り方を忘れてしまい、どうしていいか分からずにいたのです。

 この事件は、僕たちにとってもショックでした。

 母も自活できないことを自分で認識し、僕の家に寝泊りできるようになりました。

 一人では大変なことでも二人ならば何とかやって行けます。

 「急須にご飯…」この手紙の情景や気持ちもよく理解できます。

 

 おばあちゃん、化粧しているの初めて見た。きれいだよ。
 でも、これっきりだね。

長澤有紀(山梨県 24歳)

 数年前に祖母を亡くしました。

 享年95歳でしたから、大往生と言ってもいいでしょう。

 しかし、我が家でお葬式を出したのは、僕が生まれた年に祖父が亡くなって以来。

 つまり、50年以上もお葬式を出したことがないのです。

 僕にとっては、身近な者がある日突然いなくなるという経験を初めてしたわけです。

 祖母は若くして連れ合いを亡くし、僕の父親など子供三人を苦労して育てて来たため、化粧をした姿など見たことはありません。

 

 父の事業が成功した後は、それなりの生活が出来るようになったはずですが、いつでも着たきりすずめのボロを纏い、決して贅沢をしようとはしませんでした。

 僕が子供の頃は、そんな身なりをしていた祖母を恥ずかしく思うことさえありました。

 中学の時、割と裕福な家庭の同級生が家に遊びに来て、そんな祖母に驚いたように「今の人誰?使用人の人?」と言ったのです。

 その時、僕は本当のことが言えなくなり、言葉をごまかしてしまったのです。

 この事件は心のトラウマになって、はっきり言えなかった自分が情けなく、祖母にすまない気持ちでいっぱいでした。

 病弱に生まれついて「三歳まで生きられない」と医者から宣告された僕を、いつも庇ってくれたのはこの祖母だったからです。

 しょっちゅう肺炎を患っていた僕を、雨の日も風の日もおぶって病院へ行ってくれた祖母…。

 祖母の葬式の時、生まれて初めて紅を引いた祖母を見ました。

 美しく安らかな死に顔でした。

 自分に厳しく、いつも毅然として弱音をはかない人でした。

 こんな立派な人を“恥ずかしい”と思ったあの事件がふいによみがえり、万感の想いがこみ上げました。おばあちゃん許してください。あなたは僕の誇りです。

 

/// end of the“その149「心の手紙」” ///

 

《追伸》

 「日本一短い手紙」には、ユーモラスな内容のものもたくさんあります。

愛しのダンナさま、来世で絶対に
一緒にならない分、尽くします。

 これなど、「ええー!」です。

 そして…

おい兄貴、
親はちんけな旅行より仕送りを喜ぶもんだ。
俺? 俺は次男じゃ。

 長女と長男から銀婚の旅行の費用をプレゼントされました。

 ありがとうね、沙織・拓郎。

 でも、あれってお母さんが独り占めしてるみたいなんだよ。

主人が会社に行く前の「変身。とう!!」の一言は
私を明るくしてくれる。

 仮面ライダー世代ですね。

 ウチは同じ「変身!!」でも“大魔神”…うーん、誰も知らないかぁ??

 

 では、また次の通信で・・・See you again !

大魔神

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To be continued⇒“150”coming soon!

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