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| ◆ 駐在員生活の思い出/取締役に選任される
この年インドネシア会社法が大幅に改正され、定款を大修整する必要があり総会後に法律事務所と相談して取り組むことになった。 このころは税務署とのネゴも一段落して少し余裕ができ、週末にゴルフに出かけられるようになってきたが、ケニアで罹ったフック病が再発し、なかなか100も切れず、パットの調子が悪い時など120以上たたいてコンペでブービーを引くことも何度かあった・・・
前回のインドネシア駐在時(1982年~1988年)、日本人が出かけるジャカルタ近郊のゴルフ場は5~6箇所程度だったが、この頃には日本の商社が開発、運営にかかわったメンバークラブが多数オープンしており、当社もトーメンが開発・運営、グレッグノーマン設計のリバーサイドゴルフクラブを造成し、メンバーカードも持っていた。
必然、このコースでプレイする機会が多くなったが、ノーマンが張り切り過ぎて設計したおかげで、18ホール中16ホールでウォーターハザードか谷が絡み、バンカーも多く、ラフの草も深いうえにやたら粘りが強くて脱出するのが大変だった。
実際1995年のオープン時、こけら落としのプレイをしたノーマン本人がバンカーやラフにつかまって、なんと85(13オーバー)の大たたきをしていた。
上は谷越え、川越えのNo.3 Par4ミドルホール。ノーマンもこのホールでトリプルボギーをたたいていた。 この頃のインドネシア経済は絶好調で、その高い経済成長率を背景に日本の大手商社が主導する巨大プロジェクトが多数展開されていた。 日本の政府開発援助(ODA:主に円借款)や民間資金も活用し、インフラ整備から製造業の拠点構築、エネルギー確保まで多岐にわたっていた。 特に1990年代前半(ぼくがケニア駐在していたころ)、住商、丸紅、三菱、伊藤忠などが現地有力財閥グループ(主に華僑系)と組んでジャカルタ近郊のベカシやカラワンなどに近代的で巨大な工業団地を相次いで開発。
日系の工場(自動車、電機、繊維など)の進出を全面的にサポートし現在の巨大産業拠点の礎を築いていた。 スミコンウタマもカラワン工業団地の東芝、住友電工、三菱マテリアルや日本電装の工場や、川崎重工P-11セメント工場、千代田化工スラバヤ銅精錬工場、等々日本企業の工事も多く受注し施工していた。 このまま事業拡大して、バブル崩壊後の景気後退に苦しむ本社を支える海外部門のエースとして活躍できると確信していたのだが、7月にタイの通貨・バーツが暴落しアジア通貨危機が勃発。 様相が一変することに・・・ #247送ります。 9月からたいたいと交代で風邪ひいて、あまり外出もできないでいる。 健康寿命がそろそろ尽きるのではと心配・・・
(2026.11.1up)
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