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| ◆ 駐在員生活の思い出/家族がやって来た
大みそかに車で帰福し、1997年1月1日、恒例の義実家温泉旅行、2日はこれも恒例の大学同級生との新年飲み会から二次会カラオケ。 5日にはジャカルタに戻って仕事開始。 当時本社と現地法人・スミコンウタマでJoint Operation(共同企業体)を組んで、バタビアコンドミニアム、オクタゴンビルなどの大型工事を受注していた。 JO比率は本社90:スミコンウタマ10で本社の売上高アップに貢献していたが、施主の支払が遅れて資金繰りを圧迫していた。 特にバタビアコンドミニアムの施主は華僑系財閥グループで、契約の支払条件をまったく遵守せず、度重なる督促にもまったく応じることがなかった。
BPKPの94年税調がようやく決着し、追徴税92万ドルを支払うことになったが、その資金も本社に融資を依頼しなければならなかった。 さらにベテランの日本人所長が現地に架空の会社を作ってにせの発注をし、会社の金を横領したり裏金を作る事件が発覚し、もうてんてこまい状態・・・
そんな中、たいたいから「春休みを利用して子供たちとジャカルタに慰問に行くよ」とうれしい電話が。 ただ、「バリ島にも行きたいので、バリに2泊してからジャカルタ行くので、バリで合流しない?」と。 参加したいのは山々だったが、こんな状況では休みも取れず一人寂しくジャカルタで待つことに・・・ 3月29日、ジャカルタ空港でたいたいと子どもたちを出迎え。 バリ発ガルーダ便の情報が全く入らず、空港のガルーダ事務所に問い合わせてもらちがあかず、到着ロビーに戻ろうとすると、向こうから歩いてくるたいたいが見えて一安心。 「予定より少し遅れて到着したけど、出口で待っているはずのあなたがいなかったので探し回った」と怒られてしまった。 今回もプレジデントホテル2室を借りて宿泊。
子どもたちもジャカルタは10年ぶりで、当時6歳だった長女はまだしも、3歳だった長男、1歳だった次女はまったく当時の記憶はなかったが、当時はなかった高級モール、プラザインドネシア、プラザスナヤンなどで買物をし、ドゥニアファンタジー、シーワールドで遊んで様変わりしたジャカルタを堪能していった。 下掲写真がプラザインドネシア。ジャカルタ一番の目抜き通りタムリンロードに位置し、グランドハイアットホテルに隣接している。
また下掲写真がプラザスナヤン。鹿島建設がこの地区でショッピングモールの他、オフィスビル、コンドミニアムを建設していた。
3月31日、前回たいたいとアチェの民族衣装で記念撮影したシャドー写真館で長女、長男の記念撮影(今回はバリの民族衣装)し、その夜の便で皆帰国。
1997年は、5年ごとに行われるインドネシア総選挙の年。 前回駐在時の1982年、1987年も総選挙があったがどちらもアルンにいたのでさほどの盛り上がりは感じられなかった。 インドネシアは一応民主主義の体裁を取っており、選挙は3党(Golkal-職能集団、PPI-イスラム開発統一党、PDI-インドネシア民主党)で争われていたが、与党Golkarは軍、警察、公務員・教師で組織・構成され、そこではGolkar以外への投票は事実上禁止されていたため、毎回与党が地滑り的大勝利をおさめていた。 さらに議会の22%となる100議席が軍に割り当てられており、スハルト独裁体制を支えていた。 ただぼくがケニア駐在していた前回1992年総選挙は、政権への不満がたかまっていたこともあり、スカルノ前大統領の娘・メガワティ・スカルノプトリのインドネシア民主党が大躍進(得票率11%から15%にアップ)、Golkarゴルカルは73%から68%まで得票率を落としていた。 今回巻き返しを図るゴルカルがいろいろな工作をしたようで、選挙期間中あちこちで暴動が起き多数の犠牲者が出ていた。
5月29日の投票日、ローカルスタッフは全員朝のうちに投票(誰に投票したかはみな知られていたらしい)に行き、日本人スタッフは事務所で待機していたが、ジャカルタでは心配された暴動はなく平穏で、午後からは通常勤務に戻った。 投票率89%(1億1100万人投票)の選挙結果はゴルカルが得票率74.5%に大幅回復。開発統一党は22.5%とこちらも5%アップ。一方メガワティ人気で大衆に支持されていた民主党はわずか3%と惨敗した。 これでスハルト体制はこれからも盤石かと思われたのだが・・・ #245送ります。 またまた遅くなりました 歩くのも食べるのもやたら遅くなった・・・ 男の健康寿命、平均72.5歳だそうだから、あと4カ月ほど😩
(2026.10.18up)
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