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| ◆ 駐在員生活の思い出/貴乃花のこと
1975年春場所、大関貴ノ花が優勝決定戦で北の湖を破って13勝2敗で初優勝したとき、子供のように大喜びしていたのをよく覚えている。 1991年3月場所で貴花田が平幕で初日から11連勝したときもすごく喜んでいたので、この初優勝を見たらどんなに喜んだろうかと思ってしまう。
貴花田は1992年初場所の優勝後、同年9月場所で2度目の優勝、1993年5月場所に貴ノ花(大関昇進で改名)で3度目の優勝、続く1994年は1月、5月、9月、11月と年間4度優勝。 1995年にも、1月(横綱昇進)、5月、7月、9月と年間4度の優勝。 この年は優勝できなかった場所でも、3月は曙との千秋楽相星決戦、11月は兄若乃花との兄弟優勝決定戦など最後まで優勝争いでおおいに盛り上げてくれた。
1996年9月には4場所連続で15度目の優勝を全勝でかざり、当時まだ24歳という若さで、大鵬(32回)や千代の富士(31回)の優勝回数の突破は時間の問題と思われたが・・・
1996年11月場所以降はケガや肝機能障害などで休場することも多くなり、1998年9月場所で20回目の優勝をかざってからは、2年以上も優勝から遠ざかることになった。 くしくも2度目のケニア駐在時、2001年5月の最後22度目の優勝(膝を怪我して武蔵丸と優勝決定戦となった伝説の一番)と2003年1月の引退を見れたのは不思議な縁だなあと思う・・・ 宮沢りえとの婚約と破局、兄若乃花、父11代二子山との確執、ケガとの闘いや整体師に洗脳されているとの「貴乃花洗脳騒動」等々まさしく大波乱の相撲人生だった。
引退後も相撲協会理事戦の「貴の乱」をはじめ理事解任、貴ノ花部屋解体、相撲協会退職、さらには河野景子と離婚、実母、子供たちとの絶縁などなど公私ともに大波乱。 貴乃花は自らを「毘沙門天の生まれ変わり」と言っていたそうで、まさにその通りの生きざまだったのかと思う。
1992年1月30日、ナイロビに戻るとまっすぐ出社し、ローカルスタッフの給料支払い準備。 PC-9800シリーズのデスクトップコンピューターで、ロータス1-2-3のマクロを駆使して残業代、源泉所得税、社会保険料などを自動計算して現金を封筒に詰め、現場事務所まで持って行って各人に支給した。
この結構な額の現金をナイロビからジョモケニヤッタ農工大学(COLLEGE)の現場まで届けるのが、治安の悪いケニアでは非常に危険なミッションだった。 当社でも1979年、当時の事務職(ぼくの同期で上智大英語学科卒)が高速道路で前後を車に挟まれて停車させられ、銃を突きつけられて現地社員の給料を強奪された。
1988年には、ぼくの前任の事務職が、給料を現場に運ぼうとアパートを出たところで銃をつきつけられ、車を急発進して逃げたところを後ろから発砲される事件があり、彼はそれがトラウマになって、ほどなく帰国することになった。 幸いぼくのいた3年間はなにもなかったが、ぼくが帰国したあとの1994年、運転手が昼のランチボックスを運ぶ途中、ガンポイントされ車を奪われる事件があった。 1999年、ぼくの2度目のケニア駐在直前の事務職は、アメリカ大使館爆破を間近で体験している。
上の写真(↑)は2020年代の銀行強盗のもの。 ぼくの駐在時も日本人学校の先生が白昼の強盗事件にまきこまれて、ずっとショッピングセンターの床に伏せていたという事件があった。 #213送ります。 帯状疱疹、大変だったね。ぼくも8年前、ヤンゴンにいたころ突然発症して2カ月くらいしんどい思いをした。 最近もたいたいと2人風邪ひいて不調だった・・・
(2026.3.8up)
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