◆「甲斐犬」西田小夜子・・・・・・中日新聞「妻と夫の定年塾」より
犬の散歩が英輔さんの定年後の仕事だ。プードルのラムと歩いていると、見慣れない犬連れの男がやってくる。家族全員に甘やかされて育ったラムは、年中キャンキャン甲高くほえて、近所迷惑な犬だった。
すれ違う時、男は「おはようございます」と静かにあいさつした。英輔さんもあいさつし、犬を見る。黒と茶が混じった、何ともはっきりしない色の汚い犬は無口だった。「ラムはブランドの犬。こいつは野良犬だね」と誇らしくなる。
男は犬とそっくりな色のツイードのジャケットだった。犬の皮で作ったのかと想像して英輔さんは笑いたくなる。ラムは犬の姿が見えなくなるまでほえ通しだった。
「きたない犬に会ってさ、ノミでもうつると困ると思って、ラムを抱いていたよ」
帰宅後、妻にくわしく説明していたところ、同居している八十五の父が『それはたぶん甲斐犬だぞ!』と叫んだ。天然記念物の貴重な犬で、数も少ないらしい。
『山梨の南アルプスが原産地だ。昔は殿様の鹿狩りのお供をつとめた名犬だよ。野良犬だとかノミがうつるとか、そりゃあ、あちらさんのせりふだぜ。身分の低いラムがほえかかったりして、失礼というもんだ。』
数日後、英輔さんはまた甲斐犬に会う。確かに男性は殿様風で、犬もトラ毛がよく手入れしてある。二人は品良く遠ざかっていった。 |