◆果たして朱子学は科学を受容する基礎となり得るのであろうか。基本的にはなり得ないが擬似的にはなり得る。それは、聖書の創世記の冒頭と、朱子の「近思録」のそれを比較すれば、ある程度理解できる。
~「近思録」第一篇 道体篇の冒頭~
無極にして太極あり。太極動いて陽を生じ、動くことによって静かに、静かにして陰を生ず。静かなること極まって複(ま)た動く。あるいは動き、あるいは静かにして互いにその根となり、陰に分かれ陽に分かれて両儀(天地)立つ。陽変じ陰合して水火木金土を生じ五気順布して四時行(めぐ)る。五行の生ずるや各々その性をことにす。
***朱子学的な考え方によれば宇宙には「気」(ガス状物質)が充満し、この集合によって万物が生じ、離散によって消滅して元の「気」に戻る。この「気」~これを一応「物質」と理解すると、これを集合離散さすものが「理」で、これは全ての個物に内在する。この「理」をエネルギーと解すれば、そのエネルギーは個物内在しつつ同時に統一して宇宙を構成している基本であり、従って「万物の統体は太極なり、分かちてこれをいえば、一物ごとに各々太極を具う」という形になっている。同時に「気」には「陰・陽」があり、これらの作用により「物質」(五行:水火木金土)が形成され、人間もこれによって造られている。*** |