前号で話題にした昭和のグラビアアイドル、アグネス・ラムだが、小顔で清純な顔立ちとグラマーな肢体のミスマッチが衝撃的だった。
つまり、その、アイスクリームの天ぷらみたいな、自社連立政権みたいな、異業種アイノリみたいな、組み合わせのギャップの面白さだ。
時々出没する上野公園で、水を撒いて絵を地面に描いている私だが、そのカワイイ絵と、カワイクない作者(私)のギャップの意外性が見る方にとっては面白いらしい。
可愛い顔してセクシーという表現は昭和オジサン的だが、学生時代、友人のアパートの部屋にアグネス・ラムの大きなポスターが貼ってあって、行くたびに見るのが楽しみだった。
ビデオもネットもない時代、アイドルや女優を再現させるためには雑誌からお気に入りの写真を切り抜き、部屋に貼るしかない。
雑誌は「平凡パンチ」や「明星」、映画雑誌は「スクリーン」で、基本立ち読みだが、たまには買ったりもする。
お気に入りの小さな写真は定期券に入れたりもするが、個人的秘め事なので、スマホのように電車の中で見たりはしない。
今、思うと「平凡」だけど、ささやかな幸福感があったな。
若い頃、へーへ―ボンボンな人生は退屈でつまらないと思ったことがあったが「へーセ―ボンボン」はユトリ世代のことか。
ニトリに買い物に行く人はニトリ世代で、お値段以上の賢い買い物をするのか。
マツザカ世代ってマツザカ牛を買える経済的ユトリ世代ので事ではありませんから。
世代論だが、親が高齢になれば親のミトリ世代になるし、配偶者が先に亡くなれば、男ヤモメや未亡人でヒトリ世代だ。
ヒトリ世代は御一人様だが、食堂などで店が混んでいれば、「おひとり様ですかー」と大きな声で言われカウンター席に回される。
カウンター席はユトリがないがオヒトリなので我慢するしかない。
ラーメンはスープがハネるので隣の客には要注意だ。
体が大きなヒトが隣に座ると圧迫感があり、不愉快だが「汝の隣人を
愛せ」とキリストの教えを思い出すしかない。
よく「大人になる」というが「大人になり過ぎる」と逆に子ども以上に、我慢できなくなり自己中心になる事がある。
ワガママだが、実際の世間はヒマと金のあるワガジジとワガババが大勢いてワガもの顔で行動する。
シルバーシートの真ん中にドカンと座り、両脇の座席に手荷物を置いて平気でいるが、ドカンと座り「一歩もドカン」なんちゃって。
「お年寄り」が大事にされるのは希少価値があったからで、パンダと同じだが、多過ぎて希少価値がなくなれば、そうもいかない。
椅子とりゲームのようにシルバーシートを取りあう時代もやがて来そうだが、人生は年とりゲームだ。
「70オーバーしても80オーバーしても、ゲームオーバーするまでは年をとり生き続ける」なんて、いつも話がオーバーになる。
(2018.6.4)アンブレラあつし |