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その66

昭和隠居のヒルマのタワゴト

 春だ。新学期だ。新年度だ。新生活だ。と世間では騒いでいるが私の生活は「だからどーした」で相変わらず、昨日の延長の惰性で生きている。

 いつまでも惰性で生きるなんてダセーとは思うが、宇宙も恐らく惰性(慣性の法則)で動いている。

 宇宙に夢中はロマンチストだが何年も星も見てない私だ。

「♪上を向いて歩こう、涙がこぼれないように」だが花粉症で涙がこぼれ鼻水もこぼれて、春はハナと涙の季節だ。

 春は別れの季節でもあるが花粉症とは長い間お別れできずにいる。

 溺れる者はワラをもつかむだが、ハナがこぼれる者はテッシュをつかむ。

「♪春なのに、お別れですか」って「春だから、お別れなんです」って、おじさんは言いたい。

「ハロー、グッバイ」が人生だと、さらに言いたいが「♪紅茶のおいしい喫茶店」があったらオジサンにも教えてね。

 つーか、紅茶って元々美味しくない。

 アフターヌーンティ―とか言って英国風にかっこつけるが(個人的見解です)やっぱ日本人は緑茶に羊羹や饅頭の和菓子だ。

 お茶に和菓子で時代劇、特に水戸黄門をテレビで見るのが昭和隠居の正しい姿だ。

「越後屋、お前も悪じゃの」「そういう、お代官様も」だが昔の話でなく今のリアルな話で、いつの世も同じか。

 水戸黄門は夜の民放番組だったが、現代版「お前も悪じゃの」は昼間からNHKがCМなしで中継放送している。

 話題は春に戻すが「♪今、春が来て君は大人になった」で、また春が来て、またまた春が来て老いていくのが恒例で高齢化していく。

「♪ふざけ過ぎた季節のあとで」だが、今もずっとふざけて上野で水撒き活動をしている私だ。

 フザケの季節が終わらない私だが人生80年として、今は四分割のファイナルクォ―タ―で四分の三は既に終わってる。

 季節でいえば春夏秋冬の冬だ。

 季節には四季があるが人生にも四季があり死期もある。

「♪咲いた花なら散るのは覚悟」だが、咲かないまま芽さえ出ない事ある。

 もうひと花咲かそうなんて、ひと花咲かせた人のいう言葉。

 鳥の「鳴かず飛ばず」は花の「咲かず散らず」だが、もともと鳥も花
も人のために存在している訳ではない。

 花は花のために咲き鳥は鳥のため鳴く。

 トリトメのない話で新年度も相変わらずのタワゴトで恐縮だが昔は教職だった。

 ビルマは今はミャンマーだがビルマのタワゴトという実話はないしジツワマユミという歌手も実在しない。

 昼間のタワゴトは夜中のヒトリゴトになるがブログって恐らく独り言だ。

 独り言が無数の言霊となって浮遊し彷徨っている。

 無数の写真や動画の映像も言霊のように彷徨う。

 そしてこの言霊だが核廃棄物のように消滅することなくいつまでも、どこかにあり続ける可能性があるので怖い。

 まるでゾンビだが「♪小鹿のゾンビは」可愛くない。

 アヒルが大きな声でドナルド。

 象の園舎はダンボー中。

 隠れたミッキーをミーキッた。

 勝手に言ってテロだが下手なオヤジギャグは子供の夢の国を壊すテロ行為で、某ランドには入園拒否されるに違いない。

 夢の国は浦安にあるがウラヤスは裏安で、裏道の安い酒場が昭和オヤジの夢の国だ。

 上野アメ横も観光地化し屋台の飲み屋もメジャーになって、いつもヤングで混んでおり場末のウラブレ感やワリヤス感がない。

「酒場放浪記」は人気のテレビ番組で吉田類だが、私はカラダダルイで花粉症はカラダもダルクする。

「ビルマの竪琴」の水島上等兵は僧侶となって死んだ日本兵を供養しながら放浪し日本へは戻らなかったが墓場放浪記か。

 30年くらい前に「ビルマの竪琴」の映画をみて涙が出たが「ナミダみアブツ」で花粉症は「ナミダ目アブツ」だ。

「♪ふざけ過ぎたブログのあとで」やや反省もしながらフザケスギに満足もして送信する。

「♪ひとりザケ、わるふザケ、ブログを書きながら」ポチ。

 (2017.4.1)アンブレラあつし

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