20代前半の頃でしたが、松本清張原作の「砂の器」をテレビで見ました(テレビドラマだったか映画の放映だったかは、もう定かではありません)。
原作を読んだ時に自分の中では重要と捉えていた場面が、ドラマでは意外とあっさりとした描写で、そんなものかと興ざめしてしまいました。
「砂の器」
以後、原作を読んだもののドラマ、映画は見ないようにしていました。
が、最近読んだ渡辺淳一や五木寛之のエッセイに書いてありました。
自分の小説が映画化される時、原作は養子に出したようなもので、良い作品になろうが、不出来であろうが、映画の出来栄えは監督、脚本、撮影などの制作者側に委ねられるものであって、原作者の知るところではない。
(例えば渡辺淳一の「風のように・みんな大変」の中の「試写会から」)
「風のように・みんな大変」渡辺淳一
そうなのですね。小説が映像化される時、小説はあくまでも原作。
原作と比較してはいけない、純粋に映画あるいはドラマとして楽しむのですね。
即ち小説は小説として楽しむ、映画は映画として、テレビドラマはテレビドラマとして楽しむ。
原作を読んだら映画は見ないと思いつつ見てしまい、原作を意識しつつ映画は映画で素晴らしいと思ったのは「野性の証明」でした。
「野性の証明」
名優高倉健のなせる業だったのでしょうか。
ツーさん【2018.9.17掲載】
葉羽 最近、コミック原作の映画(TVドラマもだけど)が沢山あるよね? ところが僕はその原作をほとんど読破済みなんだよね。いい作品に出会うと「映画化して欲しい」と思う反面、「でも、結末、分かっちゃってるしな…」と複雑な気持ちが。もっと映画原作者に頑張ってほしいと思う。うん、切に。