勤めていた頃ですが、結婚式の主賓として5回ほど招待されました。
主賓の挨拶はそれなりに考えて、自分なりに結構良いことを話しているのではないかと思っていました。
新郎新婦のヨイショも必要ですが、よくここまでヨイショできるなと自分で感心したこともありました。
(結婚式の主賓)
新郎側としての自分の挨拶が終わりますと、次は新婦側の主賓の挨拶が始まるわけですが、その時に私は次のようなことを考えていました。
まず自分の挨拶を自己採点します。そして相手側の主賓の挨拶を採点します。
その結果、
「今日の自分の挨拶は94点、相手側はどうみても85点。今日はKO勝ち」、
「自分は92点、相手は90点。僅差ながら何とか判定勝ち」、
「自分は95点、相手は97点。自己ベストは出たが、相手が1枚上手だったか」等々。
翻って、人の話を聞く時に、評価しながら聞くと結構聞けるものです。
(今日はKO勝ち)
会社勤めしている頃は、不特定多数の1人として話を聞くことも多かったのですが、例えば人権研修、交通講話、健康講話、さらには社長の年頭の挨拶等々、多くは右から左です。
そんな時に話し手の内容の評価をするのです。
ここは例え話を入れないと分かりづらいとか、ここはもう少し時間を掛けて説明した方がよいとか、声が小さいとか早口だとか。
そんなことを考えながら聞くと、つまらない話もつまらないなりに、案外聞けるものです。
ツーさん【2018.4.23掲載】
葉羽 考えてみると、仲人は二回やったけど主賓は一回も経験してないorz。主賓を張る時分になったら、何故か周りの文化が式自体挙げないように変化した気がする。(実際、結婚した部下はいたが式は無かった。)そう言えば葬式の方も、5回連続して「身内だけ」というお報せが来たっけ。「派手にお披露目して別れられなくするのが結婚式の意義」と聞いた気がするが、そんなのは「屁のツッパリ」にもならないって事がバレちゃったからじゃないのかな(笑)