鞍馬 山口県光市で起きた、母子殺害事件の差し戻し審が行われています。
被告についている弁護士が、あれは殺意があったわけではなく、甘えたかっただけだと、イラストを交えて記者団を前に説明していた姿を見てからどれくらいの月日がたったかもう忘れてしまいました。
本当にひどい事件というか、ひどい裁判だなと思います。
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光市母子殺害事件 |
判決については、高等裁判所が第二審で出した無期懲役という判決に最高裁が「量刑は甚だしく不当」と差し戻したと報道されているようなので、差し戻し審で大方の人の予想通りの判決が出て、最高裁で弁護側の上告棄却で確定というのが可能性が高いのでしょうか?
弁護側の新たな主張を見てみると、もうコメントをする必要もないぐらいお粗末で、言葉を選ばずに言えば、犯人はともかくまずは弁護団が精神鑑定を受けりゃいいんだと思ってしまいます。
私はこの弁護団が死刑廃止論者であるかどうかは知りませんが、こういう無反省極まりない身勝手な主張を続けるのであれば、これまでかろうじて死守してきた死刑回避をむしろ遠ざける結果になるのではないかという指摘をしている報道もあるようですね。
そういうことを聞くと、死刑廃止論者どころか、むしろ被告を死刑にしたくて検察と結託しているんじゃないかとすら思えてきます。
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光市母子殺害事件 |
残されたご遺族のためにも、一日も早く望む判決がでるといいなと思います。
ですが、亡くなった方の命や、もとの平穏な生活は取り返しのつかないものとして、ご遺族にとって現在手に入れうる、もっとも幸せな結末とはどのようなものなのでしょうか?
◆ あんなやつ死ねばいいか
もし自分の身に、こういった事件と同じことが起きたらば、私は何があっても必ず自分の手で犯人の息の根を止めに行きます。
裁判なんて必要ありません。
よっぽどできた人間でなければ、犯罪被害の当事者になって客観的に物事を考えるなんてことはできません。
でも、本当にあんなやつ死んでしまえばいいかというと、やっぱりそうじゃないんだと思うんですよ。
まず第一に、私の考える死刑の機能、つまり、「あなたは死をもって償わなければならないようなことをしたんですよ。だから反省しなさい。」と犯人に伝える機能は、普通の人にしか通用しないということです。
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最高裁法廷 |
大阪府池田市の小学校乱入殺傷事件とか、奈良県の幼女誘拐殺人とかの犯人は、別に死刑になってもいいというか、むしろそうなることを望んでいるような向きがありましたね。
あの人たちにとってみると、本心ではどう思っているかわかりませんが、人生の最後に一丁やりたいことをぱーとやって今まで誰も見向きをしなかった自分が注目され、その上、死刑という自らが望んだ刑を受けているわけですよね。
それで一体誰が救われるんでしょうか?
ひょっとして犯人は、つまらない生活から開放される喜びにむしろ嬉々として、13段の階段を上っていくのではないかと思うわけです。
◆ 罪は許されなければならない
ちょっと昔話をします。
私の通っていた幼稚園はキリスト教教会で、I先生という人が結婚退職をしていきました。
数日後、みんなが教室でお弁当を食べているときに、誰かが、「I先生は志村けんと結婚した」と突拍子も無いことをいいました。
そんなことはあるはずも無いのですが、この発言をきっかけに「○○なんか××と結婚すればいい。」とか、「じゃあお前は△△のお嫁さんになればいい。」とお互いが想像しうる限りの「結ばれたくない相手」を引き合いに出して教室が騒然としてしまいました。
担任のN先生はそのときはただ、私たちを制止するだけで何も言いませんでした。
翌日いつも通り幼稚園に行くとN先生は目に涙を一杯にためて独り教室のいすに座っていました。
私たちはその前に座り誰も口をきくことができません。
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セントラファエロ礼拝堂
(in
那須) |
朝の礼拝の時間が近づくと先生はやっと口を開きました。
心の底から信じていた子どもたちに、お互いを口汚く罵りあうという最低の行為を見せ付けられた寂し過ぎる気持ちを僕らに訴えました。
そして最後に、「反省する人だけ礼拝堂に付いて来てください。」といいました。
私たちは全員礼拝堂に行き、先生は私たちを許してくれました。
今でもこの時の事が忘れられません。
N先生はあの時、私たちの行為は極めて許しがたいものだけれども「自分が匙を投げてしまったらば誰がこの子達を許すのか。」と思ったのだと思います。
こういうことがあったからかどうかはわかりませんが、どんな罪であっても、犯人は反省し、被害者は犯人を許せる心持ちになる方が、一生犯人を許せずにすごすよりも、幸せなんだと考えています。
つまり、罪は許されなければならないんだと。
これが、あんなやつ死ねばいいと思うべきではないと思う第二の理由です。
◆ 許すための理由
なので、私は裁判とは、被害者やそれを取り巻く社会が犯人を許すことができる「はず」の理由を、裁判所が法律やそれまでの判例に照らして、客観的に探してあげる作業なのではないかと考えています。
そしてこの「理由」は、適切な量刑とそれに対応する犯人の反省の両方があってはじめてその機能を果たすことができます。
山口県の事件の遺族である男性も同様のことをたびたび主張していますね(もちろん「許す」という言葉はまったく使っていません。刑と反省の両方が必要だという点が同様ではないかという意味です。)。
ですが、最近死刑判決が確定した事例を見ると、前述のように、死刑にはなったけれど反省がまったく伴ってないということが散見されます。
反省も、更生する意思も見られない、そんな、「もう死んでもらうしかない」ような、あるいは「せめて死んでくれ」と遺族があきらめ半分で言わなければならないような人が死刑を言い渡されています。
そんなことでは犯人を許すことなんて絶対にできません。
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イギリス映画「つぐない」 |
今回の事件も、検察側が死刑を求める論拠として、「罪の自覚がなく、反省の態度も認められない。」とか「更生可能性も根拠がない。」という点を上げています。
この論法で行くと、「反省の態度が認められるならば死刑は回避」ということになり、適切な刑(つまり死刑)と犯人の反省の両立はありえないことになります。
本来は、犯人が反省してはじめてどんな刑もその機能を果たすというのにです。
犯人が反省の態度を持っているかどうかということと、それが死刑相当である犯罪であるかどうかは、本来切り離して考えるべきです。
これでは、大方の予想通り死刑の判決が下っても、誰も救われません。
じゃあどうすればいいのかという妥当な答えを私は持ち合わせていませんが、これが、ご遺族にとって現在手に入れうる、もっとも幸せな結末とは到底思えません。
ただひとついえることは、被害者や遺族の心が多少なりとも救われるためには、まだ犯人を死なせるわけには行かないということです。
鞍馬【2019.8.19 リニューアル・アップ】
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