cinemaアラカルトで書ききれなかったので。

cinemaアラカルトの『かくかくしかじか』を書くために色々と下調べしましたが、その中で大泉洋が演じた明子の絵画教師日高健三について興味を惹かれました。
映画『かくかくしかじか』
『かくかくしかじか』自体、東村アキコ氏の自伝的回顧漫画なので(ある程度)事実に基づいている訳ですが、本当のところどんな人物だったのだろうと。
映画の中で「日高健三」とされた人物の本名は「日岡兼三」といい、父親が若くして病に倒れたため、高校時代から家業の手伝いをして家族を支えました。
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日岡兼三氏(左)と映画で彼を演じた大泉洋 |
彼が本格的に「絵」に取り組み始めたのは26歳と遅く、弟たちを大学卒業させてからのことです。
映画の中で「俺は美大なんか出ていない」と言ったのは、そんな事情だったのですね。
その師は、白を基調とする「地中海シリーズ」などで知られる宮崎県出身の末原晴人画伯。その絵画教室に入門し、厳しいデッサン指導を受けたそうです。
末原晴人生誕100年記念展
そして、36歳で宮崎市に「日岡絵画教室」を開講。東村アキコ氏が入門したのはその少し後のこと。
彼は、貧しい人にも絵画を学んでほしいという信念から「月謝5千円」という破格で教えていたのは映画のとおり。
映画『かくかくしかじか』
それでは生活が成り立たないのでは・・と思いましたが、実は40歳のときに学校の美術教師をしている女性と結婚し、家族の生活はむしろその奥さんが支えていました。
映画(&漫画)では奥様が登場しないので独身を通した人物かと思いましたが、実際は奥様も絵画教室を手伝っていました。
また、日岡氏は高校の美術教師として教鞭をとったこともあります。
彼の指導は「技術」を教えることより、生徒一人ひとりの内面や可能性に寄り添い、その可能性を引き出すことに重点を置きました。
彼の元を巣立った教え子たちから信頼され、彼らと生涯交流を持ち続けた姿は映画のとおり。
映画『かくかくしかじか』
さて、そんな彼の画風ですが、映画では写実的な風景画・静物画を描いていましたが、実際には水彩・油絵・アクリル画を用いた抽象画にもウイングを広げており、インスタレーション(空間造形)も手がけています。
彼が癌で2003年に亡くなった後、2015年に高鍋町美術館で『日岡兼三展』が開催されており、その時の画像があります。
『日岡兼三展』高鍋町美術館/2015年
この展覧会では、抽象画やインスタレーションが多かったようです。
そして、この展覧会に関しては、宮崎大学の美術史教授石川千佳子氏が評論を寄せていました。
『虚を抱く殻の哀切と豊穣』・・なんて切ないタイトルでしょう。
そう言えば映画の中で日高先生は、よく生徒に貝殻や魚の骨を拾ってこさせ、それをデッサンさせていました。
東村アキコ氏と撮影現場
映画の中で最後の作品となる宮崎海岸の風景画の制作シーンでも、砂浜に打ち上げられた魚の骨を熱心に書き込んでいる姿がありました。
また、映画の明子が「絵画教室って、お花とかもっとキレイなものを描くもんじゃないですか!」と喰ってかかったのを意に介せず、魚の骨を渡して「描け!とにかく描け!」と檄を飛ばします。
かつて満ちていた生命の豊穣を失い現在は抜け殻となったモノ・・そうした物を好んで描いていたのでしょうか。
さて、ここからが今回の本題です。
展覧会に展示された作品にこんなものがあります。

何でしょう? 現実には存在しない生物でしょうか。
でも、注目すべきはソコではありません。これを拡大して見てみると・・
何という精緻さ!!
もっと凄いのがあります。
これは『空間から時間へ「仮2」』というタイトルの作品。

中央に「卍」があるので、いったいどういう意味だろうと考えていたのです。
でもコレは「卍」ではありませんでした。拡大します・・
中央で「4枚の紙」の端がせめぎ合い、互いに「上」へ乗り上げています。まるでエッシャーの無限階段のよう。
『空間から時間へ』という哲学的タイトルについて、深く考察したくなりました。
でも、驚くのはまだ早い・・もっと拡大します。
ぅわっとお!!
こんな細かい模様が敷き詰められている!?
いったいどれだけの時間をかけてこの絵を完成させたのか。トンデモナイ根気と集中力がなければ、到底描き上げることはできなかったでしょう。
日岡兼三氏の作品をあと数枚・・



日岡兼三氏(2002年)
最後のオマケは「アーティスト・日岡兼三」Facebookから、東村アキコ&大泉洋と日岡教室卒業生2名の記念写真。
《配信:2025.6.29》

宮崎県の人たちが『かくかくしかじか』で盛り上がる気持ちが分かります。宮崎県の映画館では、あの『ファイナル・レコニング』を抑えて5週連続一位でしたから(笑)
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