
アッキー
先日、栃木の古墳時代窓口と兄者から教えて頂き、
水戸黄門が江戸時代に発掘した下侍塚古墳と上侍塚古墳の現説に行った。
なかなか掘る機会はないが、
前期の大型前方後方墳の調査を見る機会もなく面白かった。
特に水戸黄門がちやんと掘ったら埋め戻して
修復した状況が分かり面白かった 。
ということで先に水戸光國が調査に入った下侍塚古墳。
1番高い後方部から。

トレンチと葺石と周溝

1番面白かった周溝外端の急角度の立ち上がり。
と今回初出土のあまり見たことない尖る突帯の埴輪片。
古墳東側に茨城県に東流する那珂川があり、
その河口の大洗町の古墳埴輪に類似し、
流域の系譜などの大事さを思った 。
大洗の古墳周溝の立ち上がりは果たして?

下侍塚の後に水戸黄門が発掘した上侍塚古墳。
前年まで周溝トレンチや前方部周溝外の集落跡?を調査し、
今年度いよいよ後方主体部。
後方部トレンチ。白紐の上が水戸光國調査。
白紐の下は版築状の墳丘盛土。

墳丘上の水戸光國期の粘土塊の高まり。
地鎮の可能性も有りとのこと。
担当u山さんならどつかから
類例引っ張って来ますよね笑と話す。
他に墳丘東側の下層の葺石列と上層の水戸光國期の補修土留石列。

後方部から前方部を見る。盛土5m以上。
《配信:2025.2.6》by akky 

葉羽 「光國」が元の名前で、後に「光圀」に改名(改字)したそうです。
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