岸波通信その77「セピアの時代」

<Prev | Next>
Present by 葉羽
「街の詩」 by Scribbling Midi
 

岸波通信その77
「セピアの時代」

1 日本を震撼させた宇宙中継

2 テレビジョン出現

3 皇太子様ご成婚

4 空手チョップの思い出

5 美少女の噛み酒

NAVIGATIONへ

 

  The Gorlden Sixties 【2018.3.25改稿】(当初配信:2003.7.20)

日本の皆さま、この歴史的電波に乗せて、まことに悲しむべきニュースをお伝えしなければなりません。」
  ・・・初の日米テレビ宇宙中継

 2003年7月初めの読売新聞でしたか、とても懐かしい女性の全面広告が掲載されていました。その人の名はCynthia(シンシア)・・・そうです、南沙織さんです。

南沙織「17歳」

 タイトル・ロゴは「17→?」。ちょっと分りずらいコマーシャルですが、おそらく写真集でも出るのでしょう。

 でも、僕の心を捉えたのはそのことではなく、彼女がデビューした高度成長期の時代背景を解説した次のフレーズでした。

 そこに書かれていた記事の書き出しは・・・

1970年代の始めが見直されている。そこに時代の曲がり角があったのかもしれないと・・・。大阪万博を終えて、沖縄の本土復帰、そして『日本列島改造論』を掲げたリーダーの登場・・・。」

 ふーむ、待てよ。そういえば久しく忘れていたなぁ。この元気のない日本がまだ自信プライドに満ちていた時代!

 まさにその時代、日本は高度成長の絶頂期にありました。巷には笑顔が溢れ、が溢れていたのです。そして、そこに至る前には、焼け跡から立ち上がった目覚しい戦後復興があり、やがて、半島で勃発した戦争特需をトリガーにして高度成長の階段を駆け上がった日本・・・。

 日本は、1955年から黄金の60年代the golden sixties)を経て1973年のオイルショックに至るまでの時期、毎年10%を超える高い経済成長を達成し、テレビや冷蔵庫、電気掃除機、クーラー、電子レンジなど様々な家庭電化製品の発明乗用車の普及、そして、やがて世界を席巻することになる脅威の食品インスタント・ラーメンが誕生しました。

最初のインスタントラーメン(左)

 山間地や離島に至るまで日本の隅々まで電気が引かれ、鉄道高速道路水道電話などの基幹インフラが整備され、人々はその日の糧を求めるだけの生活から解放されて、夢を抱くようになりました。そしてその絶頂期には、何と「日本列島改造論」!

 様々な新しい文化や技術が次々と生み出され、人々の暮らしを一変させていったあの時代。同じ好況期と言っても、ほとんど何も生み出さず、土地転がしやマネーゲームで肥大していったバブル期とは、そこが決定的に違うのです。

 僕の生まれたのが1954年の9月。その2年後の1956年の経済白書には「もはや戦後ではない」とうたわれ、高度成長期に突入します。僕達の世代は、誰もが貧しかった戦後の時代を知り、多感な少年期を高度成長の日本の中で過ごした世代。すなわち、貧しい時代と成長期の両方を知る最後の世代だと言えましょう。

 じゃあ、歴史の生き証人が教えてあげましょう。人々の暮らし向きは、決して裕福ではなかったけれど、皆、輝かしい未来の到来を信じ誰もが夢を追い求めていたあの時代。そして、信じられない出来事が次々と起こった興奮の日々・・・。

 と、いうことで、今回の通信では、まるで17歳の若者のように夢と情熱に満ちていた高度成長期の日本、僕の記憶の中の驚きの日々を振り返ります。

 

1 日本を震撼させた宇宙中継

 事実は小説より奇なりと申します。高度成長期には、多くの信じられない出来事が起こりましたが、とりわけ人々の度肝を抜いたのが次の大事件でした。

 1963年11月23日の朝のことです。

 その日は、日本の社会史上画期的な、そして日本が誇る技術力の大成果を世界に示す記念すべき日となるはずでした。

 その約束の時刻・・・まだ薄暗い明け方の5時27分を前に、ほとんどの日本人は起き出し、固唾を呑んでテレビジョンの画面に見入っていたのです。

 史上始めてのテレビ宇宙中継・・・太平洋の向こう側とリアルタイムで交信する!

初のテレビ宇宙中継

 しかし、何の前触れも無く、その記念すべき中継は、突然中止されました。・・・いったい何が起こったのか、やはり技術的に無理があったのか、一切の説明はなされませんでした。

 そして、第二回宇宙中継の予定時刻、8時58分。宇宙からの電波に乗って、信じられないニュースが飛び込んで来ました!

「日本の皆さま、この歴史的電波に乗せて、まことに悲しむべきニュースをお伝えしなければなりません・・・。」

 そうです、ケネディ大統領暗殺事件

 アメリカ時間の11月22日、後に「ダラスの暑い日」として映画化されるその白昼12時30分、ダラス空港から自動車パレードで昼食会場に向かう途中、ケネディ大統領が凶弾に倒れたのです。

 何とドラマティックなニュース!

ケネディ大統領の暗殺

 不謹慎かもしれませんが、世紀のビッグイベントにふさわしいドラマチックな事件が絶妙のタイミングで起こり、それを告げるニュースが太平洋を越えてもたらされたのです。

 日本中が、そして世界中がこの事件に震撼したことは言うまでもありません。何と言っても、ケネディは、キューバ危機を乗り切った民主主義の英雄・・・。

 「民主主義は死んだ」・・・どこかの大人が言ったその言葉の重みに、心動揺する多感な少年の僕達でした。

その後、容疑者として捕らえられたオズワルドは、11月24日、犯行否認のまま、ダラス市庁舎から郡刑務所に移送されようとした時に何者かに射殺され死亡・・・。

 ケネディ暗殺自体、CIAの陰謀説など色々な背景が取りざたされましたが、現在にいたっても真相は藪の中・・・。スキャンダラスなこの事件は、皮肉にも宇宙中継という先端技術の威力を、この上ない形で日本の人々に印象付けることになったのです。

《26秒間のフィルムについたお値段》

 この大統領暗殺事件の一部始終を、たまたま持っていたハンドカメラで撮影したのが、アパレル業を営んでいたエイブラハム・ザポルーダー氏

 そのたった26秒間のフィルムは、1999年夏、アメリカ政府が歴史的資料として保管するため、ザポルーダー氏の遺族から、何と、1600万ドル(約19億2000万円)の値段で買い取られました。


 

2 テレビジョン出現

 戦後、様々な家庭電化製品が発明され、人々の暮らしに革命をもたらしましたが、最も驚いたの葉、やはりテレビジョンの出現でしょう。

 今年は、テレビ放送が開始されて50周年

 今の日本では、当たり前のように一家に数台、それもワイド画面や超薄型、サラウンド・シアターやプラズマテレビなどと素晴らしく進化を遂げているこのテレビジョンですが、日本に出現したのは、たった半世紀前の1953年のことなのです。

 この記念すべき50周年の今年、総務省から「テレビ50年記念切手」が発売されました。

【テレビ50年記念切手】

 左のシートは、日本テレビ放送網(株)(現在の日本テレビ)の局名タイトルに用いられていた鳩のマークと、同社がテレビ放送を普及させるために、全国の盛り場や公園、駅などに設置した街頭テレビを合わせた図案。

 右のシートは、NHKの人気番組「ひょっこりひょうたん島」の人形キャラクター、ドン・ガバチョと放送開始当時の家庭用テレビを合わせた図案。

 なお、「ひょっこりひょうたん島」は、大洋を漂流するひょうたん島の住人達が、漂着先の様々な国と関わって大騒動に巻き込まれる人形劇で、1964年から1969年までの五年間に1,224回放映され、当時の僕達の話題の中心でした。

 切手は全て80円切手です。

 僕の生まれた1954年は、まだ戦後10年を経過していない時期です。

 戦後の混乱で土地・田畑を全て失った僕の一家は、先祖代々住んでいた大森から郷野目に出てきて、大きな農家のを間借りし、両親、祖母、弟と5人で暮らしていました。僕が生まれて間もなくの時期は、まだ二人の叔母(父の妹たち)も一緒にいたはずですが、ほとんど記憶にはありません。

 こういう状態ですから、僕が小学校に入学する頃の我が家は、お世辞にも豊かな状態ではなく、いつも腹をすかしていました。しかも、風邪をひくだけで何度も肺炎になるほど虚弱なヤツでしたからね・・・当時の僕は。

 小学校の友達の家に遊びに行って、出前のラーメンをご馳走になった時、僕がスープを全部飲み干すのを見た友人の三瓶に「見よ、この貧困家庭のオツユの減り方をっ!」と揶揄されたりしていましたが、その三瓶の家とて、実は我が家とあまり変わりない経済状態。当時の家庭は、どこもそんなもんでした

 日々の生活にしても、およそ文化的とは縁遠いものだったと想います。

昭和の街角

 家の中にトイレなんか無い。大家さんである農家の外便所をみんなで使っていた。当時の農家の便所と言ったら、それはもう!・・・脱線するのでヤメにしましょう。

 そして、水道なんかも無い。

 毎日、近くの公衆水道(そういうものがあった)に、バケツで水を汲みに行くのが僕と弟の仕事。そして、玄関の大きなカメに水を満たして、これで生活する。もちろん、お風呂なんか無いので、もっぱら銭湯通い

ロザーナさん、アリシアさん、昔は「恥ずかしい」なんて言ってる状況じゃなかったです。

 幼稚園の頃まで、家にあった文化的なモノといえば、せいぜいラジオくらい。そんなある日、大家さんの家に「テレビジョン」が入ったと言う噂がっ!

 早速、近所の子供達がみんなして見物に行きました。

 既に、先発の子供達で座敷はいっぱいになっていまして、みんなきちんと正座して、床の間に重々しく陣取ったテレビなるものを見つめている。でもまだ何も写っていない。・・・当時のテレビは放送時間が限られていて、始終写っていたワケではなかったんです。

昔のテレビ

 画面を見ると、小さな楕円形のブラウン管・・・四角くない、そして中央部がかなり出っ張っている。さらに仰々しいのは、当時の映画館のスクリーンにあったような・・・両開きの緞帳が取り付けられていて、これを捲り上げて見るようになっている。更に、ブラウン管には、青いセルロイドのようなシールドが付いている。なにやら、有害な電磁波でも出るらしい。

 やがて始まったテレビ番組、「ララミー牧場」だったか「ベン・ケーシー」だったか、はたまた大相撲であったような気もする。一同からは「オーッ!」と感嘆の声。小さな子供は、画面に近づいて話しかけようとする。どうやら、箱の中に小さな人が入っていると思ったらしい。

 そんなこんなで、やがて貧しい我が家にも、この白黒テレビが導入されるということになりました。

 そして、ニュース番組のキレイなアナウンサーのお姉さんがブラウン管に登場すると、うちの弟、何を思ったか、ちんちん出してオネーサンを挑発し始める。どうやら、向こうからもこっちが見えていると思ったらしい・・・(←って、おいっ! それは犯罪だろっ!)

 

3 皇太子様ご成婚

 NHKがテレビの本放送を開始したのが、1953年2月1日。その頃、専用スタジオは一つしかなく、使用した機材は、テレビ・カメラを除いて全て国産で開発されたものだったそうです。

 本放送開始当日の受信契約数866件で、そのほとんどが東京都内。そのうち、482件はアマチュアによる自作の受像機だったそうです!

 一方、NHKに遅れること約半年、1953年の8月民放テレビの第一号として放送を開始したのが日本テレビ放送網株式会社(←現在の日本テレビ)

 テレビ放送開始直後は、受像機の価格が高く(←1日4時間の放送で、受信料200円、テレビの値段は一台20万円前後、大卒初任給が約8千円だった。)、なかなか普及しませんでした。

 やがて、1958年。そうしたテレビの普及に大きく貢献する出来事が有りました。この年、初めて一万円札が発行され、巨人軍に入団したヒーロー長嶋茂雄新人王を獲得し、「月光仮面」が大人気で、日本中が明るいムードに包まれていました。

 11月27日、そうした世情に飛び込んできた、さらにうれしい大ニュース“皇太子ご成婚”!

皇太子さまご成婚

 何と、その皇太子妃美智子様は、皇室の歴史上初めての民間出身者だったのです! 宮内庁は、皇族や華族出身者から皇太子妃をリストアップしたのですが、最終的には「家柄よりも人物本位で」という皇太子(現天皇)の意思が尊重され、日本中は、このニュースに沸きました。

【皇太子ご成婚に関する当時の新聞投書】

「いままで宮中のお慶(よろこ)びといえば形式的な喜びしか持たなかった私は、新聞を一ページずつ読みながら限りないうれし涙がほおを伝うのをどうすることもできなかった」

12月3日付読売新聞:松山市在住男性 

「美智子さんの記者会見の時の明るく、自然に、楽しい態度を見て、涙ぐんでしまったのは私一人だけではあるまい。この感情を説明するのは難しいが、新しい日本の進むべき理想像を見いだした喜びであったかもしれない。終戦以来、実際暗い暗い日本であった」

12月6日付読売新聞:大阪府岸和田市在住男性 

皇太子の意思で、しかも庶民からお妃が選ばれたことは大変良いことだと思う。しかし彼女はわれわれと同じ生活から急に異なった生活に飛び込むので大変な重荷だと思う。

 そのうえ時代は変わったとはいえまだ残っている目に見えない力にしばられ、お二人とも苦しむだろうが、お二人のペースで人間的な新しい象徴の地位をつくりあげてほしい」

11月28日。俳優、故石原裕次郎さんの談話

日の御子の契り祝ひて人々のよろこぶさまをテレビにて見る

天皇陛下(昭和天皇)は1960年元日の御歌でこう詠まれた。

 そして、この神宮外苑を進む皇太子殿下のご成婚パレードは、全国にテレビ中継されることが決定し、その模様を一目見ようと、テレビを買い求める人々が相次いだのです。

 わずか十数年前、太平洋戦争までの天皇と言えば「現人神」・・・庶民が天皇や皇太子のお姿を拝見することなど、とてもかなわぬ話。それが今、テレビを通して、目(ま)の当たりにできる!

 この出来事を機に、テレビの普及が急速に進展したことは、言うまでもありません。

 明くる1959年4月1日。この日、新たに開局したテレビ局は8社もあリました。もちろん、これは、4月10日に挙行される皇太子殿下ご成婚パレードに間に合わせるため。

 2人にあやかリ、この日に挙式したカップル約2万組を数えました。また、この年一年間で、テレビ受像機の台数は200万台に増えたのです。

 この皇太子ご成婚のテレビ放映は、皇室を国民の身近な存在にしたばかりでなく、初めての民間出身皇太子妃というニュースとあいまって、国民の皇室観を大きく変化させ、本当に新しい時代が来たということを改めて実感させました。

 

4 空手チョップの思い出

 時は、再びさかのぼります。

おばあちゃんが夕餉の片づけを終えた時
弟は2階のゆりかごの中で
僕と親父は街頭テレビのカラテ・チョップが炸裂した頃に
妹の誕生を知った

それから親父は占いの本と辞書と
首っ引きで実に一週間もかけて
娘のために つまりはきわめて何事もない
ありふれた名前を見つけ出した・・・

     【さだ まさし「親父の一番長い日」より】

 僕の生まれた1954年には、ベビーブームの子供達が一斉に小学校に進学し、新入生の数は、前年度より一挙に100万人も増加したそうです。

 そして、本州と北海道を結ぶ青函トンネルの起工式が挙行され、戦後初の地下鉄丸の内線が営業を開始し、ハリウッドの“セックス・シンボル”マリリンモンローが夫である大リーガーのジョー・デマジオと共に来日し、日本中を沸かせました。

 さらに、前年に開始されたテレビ放送を契機に、テレビ、電気冷蔵庫、洗濯機が「三種の神器」ともてはやされ、それらを手に入れるために、人々はがむしゃらに働いたのです。

 しかしっ!

 その年一番のブームは、何と言っても街頭テレビ。テレビ普及のために日本テレビがビール会社等と提携して、全国の盛り場に「朝日ビール提供」などと書かれた街頭テレビを次々に設置していったのです。

街頭テレビ

 そして、その人気の中心にあったのは、前年に設立された日本プロレス協会のプロレス番組

 1954年には(←もちろん、僕にはこの年の記憶はありませんが)蔵前国技館で、日本のヒーロー力道山木村政彦がタッグを組んで、極悪(失礼!)シャープ兄弟に挑戦する初の国際プロレス戦が放映され、日本中を熱狂させるプロレス・ブームが巻き起こりました。

 その数年後の記憶ですが、福島市にも、今はパセオ470駅前通りが交わる交差点の辺り、旧福ビル跡地の街中公園になっている場所に、この街頭テレビが設置されたと聞き、親父と二人で見に出かけました。

 ・・・でも、よく見えない。それはもう、黒山の人だかりというのは、こういうことを言うんだろうな、ってほどの人ごみ。当時は、娯楽なんて少なかったですから・・・大変な人数が集まっている。

 しょうがなくて親父は僕を肩車してくれる。その時、突然、まわりの人たちからウォーッという歓声があがしました。でも何が起こっているのか、画面が遠いのでよく見えない。

 多分、力道山の空手チョップが悪役の外人レスラーに炸裂していたんでしょうね!

 この当時の力道山・・・もうとにかく、押しも押されぬ日本のヒーローでした。その必殺技空手チョップ。ジャイアント馬場のジャイアント・チョップは師匠直伝です。

力道山の空手チョップ

 だけど、この必殺の空手チョップウルトラマンスペシウム光線とおんなじで、「だったら、最初から使えよ!」ってツッコミたくなりますが、何と言っても、社長も企画・演出も、そして主演もすべて力道山

 悪役外人レスラーだって、彼が交渉して来日してもらっているんですから、本気でケンカしているはずもない!

 でも、それが分っていても、見ている方はついつい引き込まれてしまうんですねぇ!

 悪役外人レスラーは、トランクスの中にビールの栓抜きなんか隠し持っていて、レフェリーの目を盗んでは、これで反則攻撃をしかける。

 力道山の額からはブワーって血が噴出すんですけれど、廻りの観客がいくらそれを指摘しても、レフェリーはその反則攻撃に決して気が付かない!

 それでもって、テレビ放映時間の終了三分前になると、突然、力を振り絞った力道山が、「初めて空手チョップを炸裂させ、悪役はあえなくマットに沈む・・・そう、正義は必ず勝ぁ~つっ! (←お、おいっ。お前もダマされてるぞっ!)

【世紀のヒーロー! 力道山に関する年表】

1924年11月4日、北朝鮮咸鏡南道で生まれる。(旧名、金信洛

力道山は、あの北朝鮮の人だったのです。知っていましたか? もっとも、その地域にはまだ北朝鮮という国は有りませんでしたけれど・・・。

1939年、二所ノ関部屋入門。1946年入幕、三年後関脇昇進。翌1950年、自宅で自ら髷(まげ)を包丁で切り落とし、相撲を廃業

1952年プロレス転進のため渡米し、約一年間の修行。翌1953年に帰国。その7月、日本プロレス協会設立。28歳。

渡米していた約一年間の対戦成績は300戦295勝5敗。勝率も凄いですけど、一年間300戦というガッツが、また凄いと想いませんか?

1954年2月、蔵前国技館3日間連続興行で、木村政彦とタッグを組んでシャープ兄弟(NWA世界タッグ・チャンピオン)と対戦。日本テレビ、NHKが二元中継を行う。

1954年は僕の生まれた年。この世紀の対戦の模様は、関東一円の街頭テレビ(約220台)でも放映され、全国的なプロレス・ブームに火が付いたのです。

1954年12月、「巌流島の決闘」と銘打ち、かつての盟友木村政彦(柔道七段)と日本選手権試合で対戦、これを撃破。(蔵前国技館

1957年10月、鉄人ルー・テーズ初来日、NWA認定インターナショナル世界ヘビー級選手権試合を戦うが結果は時間切れ引き分け。翌年、渡米して対戦したインターナショナル世界ヘビー級選手権試合で、遂に鉄人ルー・テーズを倒す

アメリカでは、リッキー・ドザンと呼ばれました。

1962年3月、“吸血鬼”フレッド・ブラッシーの持つ新AWA認定世界ヘビー級選手権試合に挑戦し、勝利。

このリターンマッチとして4月に実施された千駄ヶ谷体育館での試合では、信じられないことが起きました。テレビ中継された流血の試合を見ていて、何と、6人の老人がショック死してしまったのです。

今、思い出せば、当時50歳過ぎだった我が家のロクばあちゃんも、ブラッシーの反則噛み付き攻撃にレフェリーが気が付かないことに腹を立て、こぶしを振り上げて、血管切れそうになって怒っていました。危なかったなぁ! (←そのロクばあちゃん、今年2月に95歳で天寿をまっとう。よかったね。)

なお、その後の興行でも、老人のショック死が相次いだことから、TVプロレス中継の規制が検討されたそうです。

1963年12月、東京のホテル・ニュージャパンのナイトクラブで暴力団にナイフで腹を刺され死亡。39歳。

力道山が日本プロレス協会を設立して、ちょうど10年目。時代を急ぎ足で駆け抜けた人物でした。(合掌)

 力道山は、相手から反則攻撃を受けても、けっして自分から反則で返すことはありませんでした。そして、その正統派スタイルが国民から支持を受け、国民的ヒーローになっていったのです。

 また、太平洋戦争でアメリカに敗北した日本人が、金髪悪役レスラーを正攻法のみで撃破するというストーリーも、日本人が溜飲を下げるには、もってこいのシナリオでした。(←まるで、予定調和の「水戸黄門」! 日本人はこういうストーリーに弱いのでしょうね。)

 でも、素顔の力道山は、酒癖が悪く、リング以外でもよく暴れて空手チョップを振るっていたそうです。その悲しい末期も、多分どこかで、そうした恨みをかっていたせいかも知れません。

 それにも関わらず、力道山の思い出は、今も僕達の心に強烈なインパクトを持って存在し続けます。戦い敗れた日本人の夢を体現した世紀のヒーロー力道山! その存在は、永久に忘れ去られることは無いでしょう。

ゴリラ・マコニーに、
力道山の“伝家の宝刀”
カラテチョップが炸裂!

(1962年11月)

 さて、思いつくまま書き綴ってきましたが、高度成長期の日本、夢と驚愕の日々・・・まだまだ触れなくてはいけないことがたくさんありますが、かなりの長編になってしまったようです。

 新幹線開業、東京オリンピック、アポロ11号、若大将、植木等、ビートルズ、ミニスカート、大阪万博、そして日本列島改造論・・・それらについては、また稿を改めてご紹介することにいたしましょう。

オラは死んじまっただ~ オラは死んじまっただ~
オラは死んじまっただ~ 天国に行っただ~

天国よいとこ一度はおいで~
酒はうまいしネエチャンはきれいだ あ~、あ~、あっあ~

     【ザ・フォーク・クルセイダーズ「帰ってきたヨッパライ」より:1967年】

 我らがヒーロー、力道山よ永遠に。

 

/// end of the “その77「セピアの時代」” ///

 

《追伸》

 太平洋戦争で焦土となった日本は、朝鮮動乱の戦争特需をきっかけに高度成長を遂げることができました。また、バブル景気のきっかけの一つは、あの泥沼化したアメリカのベトナム戦争の戦争特需でした。ところが、今回のイラク戦争・・・。

 アメリカは、イラクの石油資源売却益を原資に実施するインフラ復興の投資利権を独占しようとしています。

 ただし、そのアメリカ自身も、イラク戦争に費やした巨額の戦費のため、2002年度の決算は数十兆円に上る赤字決算の見込み・・・。

 戦争によって、経済的利益を享受するということは、もはや終わりにしなくてはなりません。

 通信その74「皆さんのレスのおかげです」の中で、「スーパー・スカイスクレイパー」に対するレスとして、次のような意見があったことを記憶されているでしょうか?

>>最後まで読んで驚きました。 どこが暗いのですか? むしろ私達世代にとっては、当たり前の感覚です。生まれたときから核戦争、森林破壊、砂漠化・・・ 「破滅へのシナリオ」は身近なところにありましたよ?!

 高度成長という時代に対して、今の日本の若い人々は、東京一極集中農山村の過疎化環境問題など、破滅のタネを蒔いた負のイメージを強く抱かれているかもしれません。

 一方、全国では、昭和の街並みを再現した地域おこしが展開され、昭和ロマンとして脚光を浴びているとの事です。

 日本の高度成長は、色々な矛盾のタネを生んだ単なる「若気の至り」だったのでしょうか? それとも、僕達中高年のノスタルジアを刺激して、過ぎし日の懐かしい思い出に浸らせるだけの「セピアの時代」だったのでしょうか?

 数年前、インターネット時代の到来を「第三の波」(アルビン・トフラー)と呼んで、農業革命産業革命に匹敵する人類の第三の革命だと持ち上げたことがありました。

 しかし、我々はもしかすると、たった十数年間で日本人の生活様式に革命的な変化をもたらした日本の高度成長期過小評価し過ぎていたのかも知れません。

 なぜならば、その日本の復興モデル~高度成長革命は、アジアの四龍(韓国、台湾、上海、シンガポール)に伝播し、やがて他のアジアの国々へと燎原の火の如く広がっていったのですから・・・。

 なにはともあれ、自信喪失で元気がなく、若者も将来に夢を持てない今の日本。

 貧しくとも、明日のためにと誰もが頑張り、誰もが輝いていたあの頃を、もう一度、見つめなおさなくてはならない・・・そんな気がいたします。

 

 では、また次の通信で・・・See you again !

街頭テレビに群がる群衆

街頭テレビに群がる群衆

管理人「葉羽」宛のメールは habane8@ybb.ne.jp まで! 
Give the author your feedback, your comments + thoughts are always greatly appreciated.

To be continued⇒“78”coming soon!

HOMENAVIGATION岸波通信(TOP)INDEX

【岸波通信その77「セピアの時代」】2018.3.25改稿

 

PAGE TOP


岸波通信バナー  Copyright(C) Habane. All Rights Reserved.