岸波通信その189「日新館童子訓ミステリー」

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岸波通信その189
「日新館童子訓ミステリー」

1 会津藩校日新館

2 童子訓と武教小学

3 儒学者山鹿素行

4 保科公と山鹿素行の確執

5 童子訓ミステリ―

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  Mystery of Do-Ji-Kun 【2020.6.5配信】

「人生古(いにしえ)より誰か死無からん 丹心を留取して汗青(かんせい)を照らさん」
  ・・・文天祥「零丁洋を過ぐ」

 白虎隊士篠田儀三郎は飯森山で自刃した白虎隊士の一人ですが、自刃に先立って日新館で習った文天祥の詩の一節を高らかに歌い上げると、もう一人の隊士石田和助がこれに後段を継ぎ、ともに自刃して果てました。

「白虎隊自刃の図」

 会津武士として最後まで主君に忠誠を尽くし気高く生きることを教育してきた会津藩校日新館ですが、そこで学問や武芸を学ぶ以前から有名な「什の掟」そして「童子訓」に基づいて士魂教育がなされていました。

 会津武士の精神的支柱は、まさにこの二つによって形成されたと言って過言ではないでしょう。

 しかし・・・

移築復元された会津藩校日新館

 朱子学を基礎に編纂されたとされる「童子訓」ですが、実際はそうではなかったらしい事実が浮かび上がってきました。

 ということで、今回は「童子訓」の成立に関連する、ある人物の名が会津史から消えてしまった謎を追います。 

 

1 会津藩校日新館

 会津藩校日新館は、五代藩主松平容頌(かたのぶ)の時代に家老田中玄宰の建議により整備が進められ、享和三年(1803年)に完成しました。

 敷地は約八千坪、我が国初の水練場(プール)や天文台、医学寮なども備え、漢学と諸武芸のほか和学・神道・算法・天文学・軍事学・医学・薬学など幅広い教科を有する文武両道の教場として、全国に250ほどあった藩校の中でも屈指の存在でした。

 15歳で素読の一等を修了した者の学力レベルは現在の国立大学卒業程度と言われますから、極めて優秀な人材が育成されていたと言えるでしょう。

(特に注目すべきは医学教育ですが、その件はまた稿を改めて解説します。) 

什の掟

 会津藩士の子弟は10歳から日新館に入学して総合教育が施されますが、既にそれ以前、6歳になると幼年者10名を一組とする「什」という組織によって幼児教育が開始されます。

 その人間教育の精神的支柱となったのが有名な「什の掟」、そして「童子訓」でした。

「己の一生を全うできたのは、六歳より実施されたる”ならぬものはならぬ”の藩独特の訓育、錬成と、鄭重を極めた童子訓によって忠信孝悌の大道を教えられた結果である。」

 …落城後、斗南藩で苦心惨憺の生活を余儀なくされながら後に陸軍大将にまで上り詰めた旧会津藩士柴五郎は、そう回顧しています。

童子訓

 日新館に入学できるのは男子だけでしたが、人として正しい道を歩むという「什の掟」や「童子訓」の教えは武家の家庭そのものにも浸透し、婦女子といえど幼少のころから論語・孟子を諳んずる者も多かったと言います。

「八重の桜」で有名な新島(山本)八重もそのような一人で、七歳で「童子訓」を諳んじ、晩年、京都会津会の集いに参加した折も「童子訓」を披露しています。

「八重の桜」

 このように「童子訓」は会津人の誇りとして、地域全体にしっかりと根付いていたと言えましょう。

 

2 童子訓と武教小学

 さてその「童子訓」ですが、五代藩主松平容頌が日新館立ち上げに合わせて編纂させたもので、論語ほか中国の古典から金言を引用し、武士の子弟として恥ずかしくない生き方を示す修身の教科書でした。

(白河藩主松平定信が序文を執筆しています。)

 ところが「童子訓」の内容について、とある書物に酷似しているという指摘が2001年に発行された『会津医魂』という書物の中で指摘されています。

「会津医魂」

 とある書物と言うのは、明暦二年(1656年)に刊行された儒学者山鹿素行の『武教小学』

 該当部分を引用します。

  『会津医魂ー戊辰戦争と小池毅の生涯ー』(2001年/小池明:著)より抜粋

(前略)しかし、驚くべし、『武教小学』が発刊されて百四十九年後に会津日新館に『童子訓』が作られたが、その要旨は『武教小学』の第一章の丸写しに近い。例えば、『武教小学』第一章の最初に「およそ、士たるの法は、先ず夙(つと)に起きて盥(てあら)い漱(くちすす)ぎ櫛(くしけづ)り、衣服を正しうして用具を佩(お)び、能く気を養い、君父の温情を體認(たいにん)し…」とあるのに対して、会津『童子訓』の「一」では「毎朝早く起き、手を洗ひ、口を漱ぎ、櫛り、衣を正しふして父母の機嫌を伺ひ…」とあり、語句に至る迄、概ね符節を合すること驚くほかはない。(ここまで)

『会津医魂ー戊辰戦争と小池毅の生涯ー』は、北里柴三郎のペスト菌発見に協力した会津藩出身の細菌学者小池毅の生涯を追ったもので、その著者小池明氏(大正10年生)は小池毅の甥にあたる人物。

(著者の祖父・祖母ともに会津藩出身で、本人はNECの副社長も務めています。)

 著者が言うように『武教小学』から大幅に引用したとも思われるのですが、『童子訓』には『武教小学』のことも山鹿素行のことも一切触れられてはいません。

 現在の日新館に関連するホームページ【会津物語】にも、『童子訓』は五代容頌が国学者沢田名垂(なたり)に編纂させたことになっていて、その原本は朱子が著した「小学」であるとされています。

 ならば山鹿素行が朱子の「小学」を手本としたのか? いえ、そんなはずはないのです。

 何故ならば儒学者山鹿素行は朱子学を否定する立場から、あえて自分の論説に「小学」の文字を入れたのですから。

武教小学

 仮に山鹿素行の『武教小学』が日新館『童子訓』の底本だとするならば、白虎隊まで・・いやそれ以降も綿々と受け継がれる会津士魂の基盤を作ったのは、山鹿素行その人だったと言えるのではないでしょうか。

 しかも…(僕は今回初めて知ったのですが)、山鹿素行自身も会津藩の出身だったのです。

 もしかすると、そんな郷土の偉人山鹿素行の名が会津で語られない事には何か特別な理由があるのではないか?

 それを突き止めるために、山鹿素行の人生を振り返ってみましょう。

 

3 儒学者山鹿素行

 山鹿素行は元和8年(1622年)に会津若松で生まれました。父山鹿貞以は会津藩創始者蒲生氏郷の出身でもあった伊勢亀山の藩士でしたが会津藩に仕官するために脱藩して来たのです。

 ところが仕官の夢叶わず、会津で生まれた素行6歳の時に江戸へ。子供の頃から利発だった素行は江戸で宋学の総本山と言われた林羅山に入門。そこでメキメキと頭角を現します。

宋学の総本山林羅山

 やがて儒学者山鹿素行の名声は全国に響くようになり、その教えを乞いに全国の大名までが集まるようになります。

(浅野赤穂守、三浦肥前守、津軽越中守をはじめ全国の高名な武家が参集した。)

 ある時、門人の一人でもあり赤穂藩主であった浅野長直守(第3代藩主浅野長矩【内匠頭】の祖父)に招かれて赤穂に9年間滞在することになりますが、この間、江戸の門人たちに素行の言説をまとめさせ1656年に発刊したのが『武教小学』なのです。

 江戸時代の儒学と言えば宋代の朱子学を指し、それは朱子の「小学」から始まるのですが、素行は宋代の青少年の教訓である「小学」に飽き足らず、独自に武家の子弟の心得を体系化し、それを『武教小学』と名付けたのです。

「武教小学詳解」

 その後、江戸に戻った素行は、師である林羅山の朱子学も否定し始め、中国の各代の儒学はその時代に合わせて勝手に解釈を加えたもので、本来の儒学を学ぶためには聖人の精神を直接に汲むべきであると主張します。

 こうして著されたのが『聖教要録』(1665年)で、徳川幕府が主導する官製朱子学に真っ向から挑戦するものと見なされたのです。

儒学者山鹿素行の像

 さて、この時の幕府で朱子学による幕臣の統制という方針を推進していた人物とは誰でしょう?

 そう・・会津松平家の開祖であり将軍家綱の後見役を務めていた保科正之公なのです。何という運命の巡り合わせ!

(保科公は1611年の生まれですから、1622年に生まれた山鹿素行とそう世代は変わりません。ほぼ同世代の人物と言ってもいいでしょう。)

 

4 保科公と山鹿素行の確執

 保科公は『聖教要録』に激怒します。許せない部分は2点。

 一つ目は幕府が(そして会津藩が)推進しようとしている朱子学を否定していること。

 二つ目は、武士が感謝を捧げるべき相手としている「君父の恩情」が将軍(あるいは藩主)ではなく、どうやら君子(天皇)を指しているらしいこと。

 どうやら・・と言うのは、幕府も素行も明確にしていないからです。ただ幕閣で議論されたのは事実で、最初の『武教小学』に「君父の恩情」がうたわれた時点で問題になったのですが、結果的には有耶無耶に。

 しかし『聖教要録』では朱子学自体を否定したので、もはや弁解の余地はありません。山鹿素行は保科公によって江戸追放の処分となりました。

会津藩主保科正之公

 この追放先とされたのが赤穂藩。おそらくは門人でもあった赤穂藩主浅野長直の働き掛けもあったのではないでしょうか。赤穂藩には先の9年間で門人となった藩士も多く、罪人でありながら歓迎を受ける始末(笑)

 以後、保科公の会津藩では特に厳しい沙汰が出され、『聖教要録』は禁書となり(会津出身である)山鹿素行の名を口にする事まではばかられたと言います。

 山鹿素行が会津の歴史から消されたのは、この事件が原因でした・・。

 ならば、そんな素行の『武教小学』が何故、日新館『童子訓』に形を変えて会津武士の精神的支柱になることができたのか?

「中朝事実」(乃木本)

 実は素行は二度目の10年間の赤穂滞在中に、後世に名を遺す『中朝事実』(1669年)を著します。この書も(本来大っぴらに読めないはずが・・)世に広く浸透し、罪人であるはずの素行の名声は高まるばかり。

 幕府もついに10年目の1675年に素行を許し、それから江戸に戻った素行は、専ら軍学を教授して過ごしました。

 

4 童子訓ミステリー

 日新館の『童子訓』を編纂した国学者沢田名垂が、ほぼ150年前の『武教小学』を参考にしたのかどうか・・その真実は闇の中です。

(語句、内容の類似性を見れば答えは明らかな気もしますが。)

 ただ、『武教小学』と『童子訓』には一か所、作為的に変えたと思われる個所が存在します。それは、上の「会津医魂」の引用部分を見てもらえば明らかですが、『武教小学』発行時に問題となった「君父の恩情」が『童子訓』では「父母の機嫌」に書き換えられている部分です。

童子訓(該当箇所)

(国立公文書館史料より)

 僕は、まさにこの点こそが沢田名垂が150年前の事件を知っていて、密かに『武教小学』を下敷きにした証拠ではないかと考えます。

 それほどまでにして『武教小学』を用いた理由は何か? ・・それは実際に読んでみて理解しました。武士として・・いや人としての生きるべき道を切々と説く『武教小学』は、読む人の心を打つのです。

※口語で読める『武教小学』のサイト>http://heiho-ken.sakura.ne.jp/20130503.htm

 どうでしょう? 朱子学を否定するとか、そういう外側の情報を抜きにして虚心坦懐に読めば、その教えは心に沁みてくるのではないでしょうか。

 素行を慕って多くの門人が集まった事実が全てを物語っていると思います。

 さらに言えば、「君父の恩情」について、素行が積極的に天皇を念頭に置いたかどうかは大いに疑問です。

 素行は本来の四書五経に立ち返ることを是とする人物でしたから、単純に四書五経が書かれた時代の中国の為政者は「王」であったからだと考えられないでしょうか?

 僕にはこの名著『武教小学』を世に出した人物が、天皇親政に復帰するイデオロギーを持っていたとは到底考えられません。

 ・・・かくして、会津人山鹿素行の名は会津から消され、その高邁な精神のみが『童子訓』に形を変え、会津士魂の礎となったのではないか。それが僕の考えです。

 山鹿素行は、会津史においてもっと再評価されてしかるべき人物です。17世紀の保科公との確執は、もうノーサイドでいいのではないかと思うのです。

 貴方はどう考えますか?

 

/// end of the “その189 「日新館童子訓ミステリー」” ///

 

《追伸》

 日新館の医学寮について調査する中で、たまたま僕のアンテナに引っかかったのが(医学とは関係ありませんが)山鹿素行でした。

 本文にも書きましたが、あの有名な儒学者(というか昔教科書で名前を見た:笑)山鹿素行が会津出身だったとは全く知らなかったので驚いたのがきっかけですが。

 これだけ日本史に大きな足跡を残した素行が、出身地の会津で全く言及されない・・郷土の偉人とかで名前を見た記憶もないのが不思議でした。

 極めつけは、「会津医魂」に出会って、あの日新館の「童子訓」が素行の「武教小学」の丸写し(の部分がある)という驚愕の事実です。

 何故、山鹿素行の名前が会津から消されなくてはならなかったかは歴史をつぶさに調べて理解しましたし、会津でタブーの山鹿素行の考えが会津士魂の支柱に(密かに)据えられた理由は実際に考えに触れて理解した・・つもりです。

 そうそう・・もう一つ大事なことがありました。

 山鹿素行が二度目の赤穂暮らし(江戸放逐中)で、藩主から教育を託された人物が居ます。それはまだ少年であった大石内蔵助です。

 赤穂浪士の討入り白虎隊・・時を隔てた二つの大事件は、山鹿素行という一本の糸で結ばれていたのですね。

 結果から見て、仁・義・礼・智・忠・信・考・悌・・山鹿素行が理想とした武士道は、誤りだったのでしょうか? それとも・・?

 

 では、また次の通信で・・・See you again !

大石内蔵助

(山鹿素行に教えを受けた)

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To be continued⇒“190”coming soon!

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【岸波通信その189「日新館童子訓ミステリー」】2020.6.5配信

 

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