岸波通信その109「見果てぬ夢~アルフォンス・ミュシャの真実~

<Prev | Next>
Present by 葉羽
「KIND」 by Music Material
 

岸波通信その109
「見果てぬ夢~アルフォンス・ミュシャの真実~」

1 あるクリスマスの夜、突然に

2 アールヌーヴォーの美神誕生

3 見果てぬ夢/スラブ叙事詩

NAVIGATIONへ

 

  Alphonse Maria Mucha 【2018.3.23改稿】(当初配信:2004.6.20)

それでも自分がやらなければならないことがある。」
  ・・・アルフォンス・マリア・ミュシャ

 最近、巷で、不思議な缶コーヒーが注目を浴びています。

 缶コーヒーと言えば、タイガー・ウッズなど有名人を起用したり、「明日があるさ」などリバイバル・ソングとタイアップしたり、“深煎焙煎”や“豆の産地銘柄”を全面に押し出したりと、あらゆる手法が登場するCMの激戦分野でした。

 しかし、伊藤園の“サロン・ド・カフェ”は、アールヌーヴォーの旗手アルフォンス・ミュシャを起用するという斬新なイメージ戦略で新規参入し、成功を収めています。

黄道十二宮

黄道十二宮

(Mucha, 1896年作)

←ミュシャの代表作の一つ。
円形のバックには十二宮のシンボルが 描かれている。

 アルフォンス・ミュシャが活躍した19世紀末から20世紀初頭のフランスは、人々が産業革命のもたらした無個性・大量生産の消費文化に嫌気が差し、本当にいいもの、価値あるものを渇望していた時代。

 そうした中で、全くの偶然がもたらした一つの事件が、無名のスラブ人画家の運命を大きく変え、美術界の常識さえ変革することになろうとは誰も予測しませんでした。

 そしてまたその男は、晩年、重大な決意をもって、自らの富と名声、自身の生んだアールヌーヴォーさえ捨て去り、“見果てぬ夢”を追い求めることになるのです・・・。

ヴィザンティン風の頭部(ブロンド)

 ということで、今回の通信は、アールヌーヴォー美学の形成に決定的役割を果たしたアルフォンス・ミュシャの数奇な運命を、自他共に認めるミュシャ・フリークのRioちゃんと共にたどります。

Salon de Cafe

Salon de Cafe

(伊藤園)

←余りにキレイで、思わず 空き缶を並べてしまった!


line

 

1 あるクリスマスの夜、突然に

 ヴィクトリア朝的な理想の女性像と自然界の植物模様などを組み込んで様式化した画家アルフォンス・ミュシャは、1860年7月24日、チェコスロバキア南モラヴィア地方の田舎町で誕生した。

 モラヴィア地方は、見晴るかす大草原が広がるスラブ民族の荒涼の大地。

 彼の父は裁判所に勤める廷吏であったが、その家はとても貧しく、子供の頃の興味はひたすら絵を描くことだったという。

RioRio

 こんばんは。

 まさかまさか、本当にミュシャについての「通信」を書くのね!

 どんなまとめ方をなさるのか、ミュシャ好きにとってはとても興味深いところ。

 私なりにこの中で一番印象的なのを選ぶとすれば「羽根」でしょうか。

 理由は、ミュシャの全てが凝縮されているからです。ツンと横を向いた貴婦人、19世紀の女性独特の豊満な肉体と絵から飛び出て来そうなほど、しなやかな指先。

 それなのに、少しも嫌らしく感じさせないのは、ひとえにミュシャの技術のなせる技でしょう。

 忘れてはならないのが、背景です。

 ミュシャの絵のほとんどは、背景にほぼ左右対称の植物が曲線となって描かれています。

 これこそが、ミュシャが先駆けとなったアールヌーヴォー様式でしょう。

←“羽根”は実に気品に溢れたいい作品だね。habane葉羽

羽根

(Mucha, 1894年作)

羽根

 絵を描くことにしか興味を見出せないミュシャは、当然のごとくに学業もままならず、落第を繰り返す。

 19才になった彼は、もはや絵そのもので身を立てるしかないと、故郷を捨てて放浪の旅に出た。

 やがてウィーンを経てパリに流れ着いた彼は、売れない芸術家おきまりのその日暮らしの毎日。

 8年の歳月があっという間に流れ、ミュシャはパリの小さな印刷工房で、ポスターのイラスト描きをしながら生計を繋いでいた。

 だが、彼の描くイラストは、おとなしい目立たないものであったため、派手で刺激的な色使いが求められるポスターの世界では一向に芽が出なかったのだ。

 しかし・・・

 運命の歯車は回り出す。あるクリスマスの夜、ミュシャが印刷所で独り留守番をしていると、突然鳴り響く電話のベル。

ヴィザンティン風の頭部(ブロンド)

 電話の依頼主は、往年の大女優サラ・ベルナール

 あのオスカー・ワイルドが、彼女のためにわざわざフランス語で一幕劇「サロメ」を書いて献上したり、最後はフランス国葬までされた伝説の女優だ。

 だが、その類まれな美貌で一世を風靡した彼女も、既に齢50歳を数え、人気は凋落の一途を辿っていた。

 そのサラが、再起を賭けた公演のポスターを依頼してきた。

 しかも開演は、年明けの1月4日…わずか10日余りしかない。

 このアクシデントは、サラがいつもの座付きの画家のポスターに満足せず、急遽入れ替えをすることになったためだった。

 だが、この工房でも名のある画家たちは全て故郷に帰ってしまっており、年の暮れに残っていたのはスラブ人の貧乏画家が一人だけ。

 サラは、大きな賭けに出た。

 そしてそれは、ミュシャにとっては始めての大仕事…まさに天が与えたもうたビッグ・チャンスだった。

 彼は、渾身の力を傾けてこの仕事に没頭した。

サラ・ベルナール (実写)

サラ・ベルナール(実写)

サラ・ベルナールの肖像

(ジョルジュ・クレラン作)

サラ・ベルナールの肖像


line

 

2 アールヌーヴォーの美神誕生

 下り坂の女優と売れない画家との運命的な出会い…。

 ミュシャが渾身の力をこめて描き上げたのは、黄金の衣をまといシュロの葉をかざした等身大のサラ・ベルナール。

 流れるような曲線の植物模様を取り入れた大胆な衣装、全体を包むやわらかな色調、そこに僅かに添えられたスラブ的な異国情緒のエッセンス・・・このポスター「ジスモンダ」は、見る者の心を釘付けにしてしまう不思議な魅力に満ち溢れていた。

RioRio

 それにしても、ミュシャの描く絵では、女性が笑うことはありません。

 ハニカミ(というと少々御幣があるかもしれませんが、それ以外に表現の仕様がないのでここではそうさせて頂きます)は少々あれど、歯を見せて大きく笑う女性は、私の知る限りありません。

 私なりに考えると、ミュシャは女性を神秘的に魅せることを一番に考えていたのではないかと思います。

 先ほども少し触れましたが、ミュシャの描く女性は露出の多い女性がほとんどなのですが、まったく嫌らしさを感じませんし、それどころかむしろ神秘的なものさえ感じます。

 もしかしたら、ミュシャは「笑わせない」(と言うか、感情をあえて表さない)ことで女性の神秘性を表現したのかな、とも思います。至って素人の考えですが…。

 しかし!それなのに全然きつい印象を与えないのはナゼだ~!!…と、考えると、その要素は私の考える限り2つだと思います。

 まず1つは「色彩」。暖色系の色を使うことできつい印象を極力押さえてあります。

 あともう一つが「円環」。背景だったり、人物を囲んでいたりと使い方は様々ですが、円を使うことで、印象を柔らかなものにしているのではないか、と私は思います。

Rioちゃん、素晴らしい分析だよ。habane葉羽

ジスモンダ

(Mucha, 1894年作)

ジスモンダ

 間もなくパリの街角をミュシャの斬新なポスターが飾った。

 名声を取り戻したサラの公演は大成功を収め、ミュシャのポスターは、街角から次々に盗み去られるというおまけ付き。

 一夜にして時代の寵児となったアルフォンス・マリア・ミュシャ・・・サラ・ベルナールは、以後、彼と6年間の契約を交わすことになり、ミュシャは「椿姫」「遠国の姫君」などの作品を次々と世に送り出した。

 ミュシャの描く耽美的な表情の女性と植物の装飾をあしらったスタイルは“ミュシャ様式”と呼ばれるようになり、パリの街角にはその柔らかなデザインがいたるところに見られるようになった。

 “アールヌーヴォーの美神”の誕生だ。

四季

四季

(Mucha, 1896年作)

←四季を擬人化 した作品。


ヴィザンティン風の頭部(ブロンド)

夢想

夢想

(Mucha, 1898年作)


line

RioRio

 レストランのメニュー表やポスター広告など、ミュシャは様々なオーダーを受けて描いていたようですが、その技法は石版画(イモ版みたいなもんか)。

 詳しくは無いのですが、石の版画ということでしょうね。

 あれだけのクオリティーを石に彫っていたのか…凄すぎる…。

 しかし、最近はミュシャのコピーである、復刻版を売りつける即売会も多いようです。

 ちなみに私も行きました(-_-;)何も買わなかったけど、結構いい値してたぞー???

(まぁ、だから買わずに済んだのですが…)RioRio

 「ミュシャっぽい」のを楽しむ為の買い物なら良いのですが、「オリジナルは買えないからせめて雰囲気だけでも…」とか考えてると、痛い目をみますよ。

 私はその後、本や何かでミュシャの絵をみてから初めて、「あそこで売ってたのは本物じゃなかったんだー」と思いました。

 本物だと思い込ませて売るみたい。

 だけど、雰囲気も何も、オリジナルとはまったく違います。

←色彩の柔らかさが本物の特徴だね。habane葉羽

(Mucha, 1900年作)

冬


ヴィザンティン風の頭部(ブロンド)

蔦

(Mucha, 1901年作)

←ミュシャの代表作の一つ。
蔦の精が擬人化されて描かれている。


line

女性と鳩

女性と鳩

(Mucha, 1903年作)

←晩年の大作「スラブ叙事詩」
に繋がる画風の変化が見られる。


line

 

3 見果てぬ夢/スラブ叙事詩

 アールヌーヴォーの旗手として時代の寵児となったミュシャにやがて転機が訪れる。

 そのきっかけは、1900年のパリ万博だった。

 ボスニア・ヘルツェゴビナ館のデザインを担当することになった彼は、そこに展示されたスラブ民族の苦悩の歴史に触れ、大きなショックを受けた。

 彼が捨て去った祖国チェコ・スロバキアは、何世紀にもわたってオーストリア帝国の圧制に苦しみ、ボヘミアンの民族文化は抑圧され、民族の言葉を使うことさえ禁止されていた。

 その祖国は、ハプスブルグ家の支配を打倒し、民族の誇りと自立をかけて立ち上がろうとしたまさにその渦中にあったのだ。

 敵前逃亡・・・

 ミュシャは、同胞が血を流す中、異国で一人名声を欲しいままにしている自分に深い自責の念を抱き、後悔にさいなまれた。

 祖国のために自分ができること。

 彼は、アメリカにわたって資金集めを始めると、その5年後、突如として第一線から身を引き、蒼茫の祖国に還った。

アルフォンス・マリア・ミュシャ

アルフォンス・マリア・ミュシャ

 祖国に帰ったミュシャは、虐げられた民衆のために、慈善運動のポスターや民族意識を鼓舞するための切手のデザイン、雑誌の挿絵づくりにいそしんだ。

 しかし・・・

 国外で成功を収めた彼への妬みもあったろう・・・彼のエレガントで繊細な“ミュシャ様式”は、チェコの美術界をはじめ、祖国の人々から暖かく迎え入れられることは無かった。

 それでも自分がやらなければならないことがある。

 ミュシャは、彼に名声をもたらした貴族的な作風を捨て去ることを決心し、1911年、最後の大作の制作に着手した。

 「スラブ叙事詩」・・・

 スラブ民族一千年にわたる栄光と迫害、そして自由のために流された血の歴史を描くことだ。

 以後17年間にわたり、彼は全身全霊を傾けて20点もの大壁画製作に没頭する。

 彼が描き上げたのは、かつての“ミュシャ様式”が微塵も見られない、見る者の魂を揺さぶるような激しい“人間”の表現だ。

スラブ叙事詩

("The Oath of Omladina under the Slavic Linden Tree")

 だが、完成後、プラハ市に無償で寄贈された「スラブ叙事詩」は、前衛的な現代美術が隆盛となっていた当時の美術界からは評価されることがなく、絵は展示場所の確保もままならないままに倉庫行きとなった。

 全作品が公開されたのは1928年のただ一度のみ・・・共産主義へと傾斜しつつあった祖国は、スラブ民族の偉大な歴史をたどり、民族の誇りを取り戻そうとした彼の想いを理解しなかったのだ。

 やがて、オーストリアを併合したナチス・ドイツがチェコに侵入した。

 民族主義を標榜するミュシャは投獄され、78歳で失意のままこの世を去る。

 ミュシャの死後、完全に共産主義国家となったチェコ・スロバキアでは、彼の民族主義的な「スラブ叙事詩」が公開されるはずも無かった。

 この絵が再び日の目を見るのは1980年代になってからだ。

 祖国を愛し、民族の誇りを取り戻そうとした“魂の画家”ミュシャの見果てぬ夢。

 歴史に翻弄され続けた彼の晩年の生涯を想うと、決して笑いを見せないミュシャの女性画は、また違った意味を訴えかけてくるようだ。

 

/// end of the “その109「見果てぬ夢~アルフォンス・ミュシャの真実~」” ///

 

《追伸》

habane葉羽 Rioちゃん、今回はご苦労様。

RioRio いえいえ、どういたしまして。

habaneラーメン道では、アニメーション・アイコンだったけど、ようやく実物登場で、読者もRioちゃんの多彩な才能にビックリしているかもね。

Rio気付けば熱く語ってこんなところまできてしまいましたが、いらない部分は削除してくださいね。

habaneあははははは。そんなもったいないことは出来ないよ。

Rioところで、この通信の冒頭でも紹介されてる観月ありさCMの「サロン・ド・カフェ」という缶コーヒー、ミュシャに惹かれて飲んだものの(*o*;)マズー でした。味が名前負け(あーんどパッケージ負け)してるんじゃないのぉ~??

habaneたしかに、ちょっとチープな味で、僕もがっかりした。ま、発売が日本茶の伊藤園だからしょーがないかも。

それから、この通信のBGMに使用したラヴェルの“水の戯れ”は、ミュシャが大好きだった曲で、スメタナの“我が祖国”とともに、彼が「スラブ叙事詩」の製作を決意したきっかけとなった作品とも言われているんだよ。

Rioへぇ~、それは初耳。

habaneいずれ、君がもう一つ大好きな「マザーグース」についても取り上げるつもりだから、また投稿してね。

Rio私でお役に立てるようなことがあれば、何でも言ってくださいね(^^♪ それではながながと失礼致しました。配信まで楽しみにしてるよー!

 ということで、いつでも元気なRioちゃんでした。

 

 では、また次の通信で・・・See you again !

桜草

(Mucha, 1899年作)

←この「桜草」とRioちゃんの好きな「羽根」は連作で、
1899年に「羽根」が発売され、1900年の初頭に
「桜草」が発売された。(製作は同時)

「桜草」は最初「花」というタイトルだったが、
別に4部作シリーズの「花」も作成していたため、
間違えないよう「花」から「桜草」に変えられた。

管理人「葉羽」宛のメールは habane8@ybb.ne.jp まで! 
Give the author your feedback, your comments + thoughts are always greatly appreciated.

To be continued⇒“111”coming soon!

HOMENAVIGATION岸波通信(TOP)INDEX

【岸波通信その109「見果てぬ夢~アルフォンス・ミュシャの真実~」】
2018.3.23改稿

 

PAGE TOP


岸波通信バナー  Copyright(C) Habane. All Rights Reserved.