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「Ice Cubes」 by Fra's Forum♪

 

 

 

 

 

 


◆ 駐在員生活の思い出/実録「沈まぬ太陽」

ナイロビ駐在2年目の1991年当時、まだ三十代で日本人学校の運動会やスポーツ大会でもそこそこ活躍?できていたけど、当然ながらゴルフもがんばっていた。

 毎月開催の日本人会コンペの他、ケニア進出企業主催のコンペもあり、4月には日本航空主催のコンペがあった。

(下は、ナイロビ郊外のMuthaiga Golf Club。池が多くけっこうな難コースだった。)


 商品も豪華で、勇んで参加したけれど気合が空回りしてスコアは最悪。

 商品にありつけなかったが、仲良くしていた設備協力会社・ダイダンのエンジニアがグロス122(91+4+27)で当日賞をゲット。

 商品のウエッジウッドの高級茶碗セットをたいたいにプレゼントしてくれ、今でも大切に使われている。

 1991年はぼくのゴルフ人生ピークの年だった。

 コンパクトなスイングでドライバーはまっすぐ300ヤード近く飛び(ナイロビが高地でボールがよく飛ぶおかげもあったが)、アイアンも正確で80台のスコアもよくでていた。

 あとはアプローチとパットを磨けば、70台でまわってシングルプレーヤーも視野に入るなと意気込んでいた。


(上は、Muthaiga でティーショット。280ヤードくらい飛んだ(はず):笑)

 できれば飛距離ももう少し伸ばしたいと思っていたところ(日本人会のコンペでドラコン賞を取るには300メートルは飛ばさないといけなかった)、また日本出張の話があり、当時はやっていたメタルヘッドドライバーを手に入れようと勇んで旅立ったのだけど・・・

 当時、ナイロビに日本航空の支店があり、直行便は飛んでいなかったが、英国航空(BA)、ルフトハンザ航空と提携してプロモーションしていた。

 山崎豊子の「沈まぬ太陽」のモデル、小倉 寛太郎(おぐら ひろたろう)氏が前年の1990年までアフリカ調査開発部長を務めていて、その年60歳で定年退職していた。


2009
年公開の映画「沈まぬ太陽」 渡辺謙主演

 定年退職後は長い「僻地」(カラチーテヘランーナイロビと1969197310年間海外勤務。ナイロビは最後の4年間単身赴任)勤務の経験からアフリカ研究家、動物写真家、随筆家として活躍。

 1971年にはケニア政府公認プロハンター資格を取得し、民間交流にも努め、1992年にはケニア政府から外国人として唯一人の名誉ウォーデン(野生生物保全監理官)に任命されている。


ハンタージャケット着用の小倉寛太郎氏

 1985年(昭和60年)の日本航空123便墜落事故後、会長室部長に抜擢され、会長・伊藤淳二率いる新体制の下、社内改革に力を注ぐ。その後は再び主流から外れ、アフリカへ戻る。

 1976年には戸川幸夫、羽仁進、渥美清、田中光常、小原秀雄、増井光子、渡辺貞夫、岩合光昭ら東アフリカの自然と人を愛する同好の士を集めて「サバンナクラブ」を発足させ、事務局長を務めている。

 2002年(平成14年)10月、肺癌で死去(72歳)。

 #208送ります。

 本日、長女の岳父・廣瀬徹也氏の葬儀が世田谷三軒茶屋でおこなわれ、たいたいと参列してきた。

  廣瀬氏は2000年駐アゼルバイジャン特命全権大使、同年10月グルジア(現・ジョージア)特命全権大使を兼任し2002年退官した元外交官。

 廣瀬氏が亡くなったのが1月17日。5年前亡くなった奥様の命日の前日だった。

 ぼくの父が亡くなったのが1月14日(1992年) 義父が亡くなったのが1月22日(2007年) 次女の岳父が1月1日(2024年) なぜか1月に集中してる。

(そんなわけで、今回帰国後の日々編はお休みするのでよろしく。)

 (2026.2.2up)

葉羽小倉氏は72歳で亡くなったんだな。僕らがその年齢に近づいたってことは、少しザワザワするね。 ←(大丈夫”世に憚る”タイプだから:笑)

 

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