「windblue」 by MIDIBOX


よく老人たちが口にする「近頃の若いもんは、本を読まなくなった。文字を書かなくなった」というのは、たぶん間違っている。

 本は読まないと思うが、読む文字数は10年前に比べて格段に増えていると思う。

 スマートフォンを見ながら駅のプラットフォームを歩いていて、線路に転落したり電車に激突する若者というのが問題になっている。

駅でスマホを・・

駅でスマホを・・

 ゲームに熱中している輩もいるだろうが、大部分はメールやブログやツイッター、フェイスブックなどのSNSを読んでいる。来日した外国人も、日本人のスマホ中毒には呆れている。

 読むだけでなく、当然のことながら書く。読み書きする文字量は、ケータイが本格化した2000年以降、飛躍的に増加している。

 数年前に日本の携帯電話の登録台数は1億台を突破した。1ヵ月の通信代が仮に1万円だとして、1億×1万円=1兆円、12ヵ月で12兆円になる。

 日本の衣料消費は現在小売価格で9兆円と言われているが、これを軽く上回る。洋服が売れないわけである。衣料消費が振るわない主因は、このケータイ消費にあることは間違いない。

 まさか、ケータイ代をケチって、洋服を買おうなんていう殊勝な輩がいるとも思えない。みんな、洋服はファストファッションで我慢して、ケータイ(いまやスマホと言った方がいいかもしれない)でSNSやゲームに興じるという時代なのである。

SNS:Facebook

SNS:Facebook

 当然のことながら、従来はファッション・ブランドやラグジュアリー・ブランドが店を構えていたような銀座、表参道などの一等地に、スマホショップが立ち並ぶような嘆かわしい事態が見られるようになっている。

 老人たちの繰り言に、「日本語がメチャクチャになっている」というのがある。これは、冒頭の繰り言とは違ってかなり当たっている。

 絵文字、女子校生語などに加えて、いわゆるケータイ語というのが登場しているのだから、もうメチャクチャを通り越して、スマホ大国日本の日本語は修復不可能な水準に到達している。

 こうした現象は、きちんとした日本語の最後の砦とも言うべき、新聞などでの文章にも影響を及ぼしている。

新聞の文章にも

新聞の文章にも

 身近な例で言えば、弊紙WWDジャパンでも、web版のwwdjapan.comで、記者を始めとしたスタッフが、ブログを披露している。

 本紙とは異なり、ファッション業界やファッションに関するネタ以外にも、日常生活における雑感というものを書いていて、同じ会社にいながら「へえ、この記者には、こんな趣味があったんだ」とか、「この記者はこんな考え方をするんだ」などという発見がある。

 本紙の記事とは異なって、胸襟を開いた文章がほとんどであり、文体もかなり砕けたものになっているケースが多い。しかし、これが曲者なのだ。読んでいて不快になるようなブログが時々ある。胸襟を開きすぎて、ついつい調子に乗って、「地」が出てしまうのだ。

 フランスの言語学者ソシュールは、言語には、「ラング」(「エクリチュール」とも)と「パロール」があると述べた。

 分かりやすく言ってしまうと、前者は書き言葉で後者は話し言葉のことである。

フェルディナン・ド・ソシュール

フェルディナン・ド・ソシュール

(Wikipediaより)

 新聞記事では「ラング」でも、ブログでは「パロール」と書き分けているが、どちらに「本性」が出るかと言えば、当然後者である。

 もちろん「ラング」「パロール」は相互依存しながら同一人格のもとに成立するのであるが、本紙記事では建前に終始した記者が、「パロール」では饒舌に本音を吐露してトラブルになるようなケースがある。

 ほとんどの読者は、その記者の人格を判断するのに「パロール」によるブログ部分をベースにするからである。このあたりが、難しい問題を孕んでいる。

 「文は人なり」という古くからの格言がある。読む人が読めば高潔な人格の人物が書いた文章はそれなりにそう感じるし、反対に下劣な人格の人間が書いた文章は下劣に見える。

文は人なり

文は人なり

 「ラング」にせよ「パロール」にせよ、文章を書くというのは、ある意味裸で街を歩くことだと私は思っている。裸で街を歩くのだから、注目は集まる。

 せめて中年太りの腹を引っ込めてファッショナブルなパンツぐらいは穿きたいものだと自戒している。

                

(2013.9.3「岸波通信」配信 by 葉羽&三浦彰)


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