よく私は言葉の勘違いや、ニュアンスによって造語を使ったりする事があります。

 造語と意識している訳ではなく、「こんな感じの言葉無かったっけ?」と使うので、ほぼやはり勘違いには違いないのですが。実はこの私の勘違いの代表的なものの中でも、とりわけ好きな言葉に「夢破れて山河在り。國破れて草青見たり」と言う漢詩めいたものがあります。

 もちろん正しくは、杜甫が書いた漢詩の「春望」の、一節・・「國破れて山河在り 城春にして草木深し(以前と変わらず草木が生い茂っている。

 悲しみに花を見ても涙し心が傷む)」と都を偲んで読まれた詩なのですが、実は原文を知ったのは最近で、私はまるっきり逆の意味と捉えていました。

 私の勘違いの造語「夢破れて〜」、これはよく本当に思い出す言葉で、私的意味としては、戦をしていてもその後にも、「夢破れても山河は変わらずその場に悠然と在り、国が破れて都の後には、草が生い茂り、又自然の形と化す」と言う人間の行いとは関係無く、いつもそこにある自然に、人間の行動の儚さと、それ以前にあるがままにある現実を謳った漢詩だと思っていたのです。

 なので、辛かったり現実逃避したい時など、この造語を思い返しては、「そんなこんな思っても、現実はそう変わらない。大丈夫」と自分を励ましていたものです。

 こう言う意味合いでは、例え間違って覚えている造語で他人に通じない言葉でも、十二分に心に響く価値があるかとも思うのです。

 古文なども、定説や正しい解釈はあってしかるべきですが、その読み手の感性で受け取り方が違うのも又一つの楽しみの様に、正しい「春望」を知った今でも、この勘違い「草青みたり」が好きだったりします。

 それには、以前黒澤映画の演出で、戦場の空が晴れているのでは雰囲気がそぐわないので、より迫力ある曇った空を撮るのに待ったと言う話を聞いた事も影響してるかと。

 それを聞いた時に妙な違和感を感じたのです。

 それは「そうか、作品などでは空で状況を盛り上げたり演出方や美的哲学があるかもしれないけれど、実際に昔戦場や、今の戦争の最中でも、空は空として、自然でいるんだよなあ」と感慨がありました。

 そう考えると、余計にその自然の下で、何故なかなか平和ではいられないのか…人は周り=自然を当たり前や背景の一部に見るしかできない事が多いのではないかしら?

 自然が=現実だと納得できれば、何か救われる所があるんじゃなかろうか、と考えてしまうのです。

 つまり、自然は人間の動向関係無く、いつもそのままなのだと、黒澤映画のエピソー
ドを聞いて逆に実感したのでした。

 これは他の事にも言えると思います。

 何かのせいでなると言う因果よりも、何かのおかげと言う方がしっくりくるような気が私的にはするのです。

 だって自然は自然そのまま、そして人もその自然そのままの存在だからです。

 色々見方や見解はあるかとも思いますが、どこまで行っても、人間も生き物そのもので、自然世界の中の又自然な存在なんじゃなかろうかと言う考えが、私の揺るがない自信と現実感なのです。

 当たり前の事の様に思えますが、これが分かっていると、とても心強い事、現実感の無さは自然感の無さ、実は見え方の問題だと救われる所があるんじゃないかと思います。

 これは持論ですので、考え方は人それぞれ、想いも人それぞれ、絶対は無いとは分かっていても、「草青みたり」の様に、現実の「世界」はいつも美しいのだけは、声を大にしてはっきりと言える事です。

 よくよく見て見ると原っぱや畑には、もうオオイヌノフグリが花を付けて咲く準備をしています♪春はもうすぐ(^O^)

 気づいてみると、世界はいつも鮮やかで優しくてステキです。

  Written by Akio (2009.2.10 up)

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