6月11日の土曜日、福島駅西口のザ・セレクトン福島で挙行した『福島県近代医学教育150年顕彰記念シンポジウム』が成功裡に幕を閉じました。
いや~ よかったヨカッタ。辞める予定だった僕は、このために医大に残留したのですから。
150年顕彰記念シンポジウム
ここに来るまで、令和元年に『福島県立医科大学の歴史』【増補改訂版】を制作し、2年に同歴史の【英語版】を制作、昨年度は福島民友新聞掲載のシリーズ・コラム『ふくしま近代医学150年~黎明期の群像』を共同執筆・連載し、その締めが今回の150年顕彰記念イベントだったのです。
う~ん、苦節10年。うっ、うっ・・。 ←(ウソつくな、4年だろ!)
翌日の民報新聞にはトップ記事で掲載。
ほかに2面・3面にも追加記事が。やってくれました近藤真知記者!
民友新聞でも2面・4面で掲載。(これまで「黎明期」をPRして来たので省略)
特に嬉しかった事が二つ。その一つ目は、海外からリモート参加していただいた台湾大学の倪(ニィ)医学部長の記念講演が福島をリスペクトしたものであった事。
台湾大学医学部は福島医大のルーツである須賀川医学所を卒業した後藤新平が台湾民生局長官の時に立ち上げたもの。
そしてその台湾医学校の初代の校長が、やはり福島県出身の医学者高木友枝だったのです。
高木友枝医学校長(福島県出身)
倪教授は、記念館や銅像など今も二人を顕彰している様子を紹介してくれました。
リモート講演の倪医学部長
そして二つ目は、今回の顕彰記念シンポジウム実行委員会の名誉顧問も務めた内堀知事が本人出席していただき、祝辞の中で「福島県立医科大学のルーツである白河医術講議所」と、歴史のスタートを初めて明確にしていただいた事。
他の国立大学等が幕末・明治維新期の種痘所や医学校をルーツとして150年の歴史を誇る中、本県では太平洋戦争期末の女子医学専門学校が出発点とされ、大きなスタンスの違いがありました。
届いた生花も沢山!
事実上のルーツ(淵源)であった明治4年9月の県立白河医術講議所を公式にすることはまさに県立医大の悲願。それが叶ったのです。
このあたり一般の方は見逃すでしょうが、医大としては大事件なのです。
いや~ 実に意義深いシンポジウムが出来たな。(うっうっ・・)
さらに嬉しかったのは、先生方の計らいで、僕ら事務員もシンポジウムの後の記念祝賀会に参加させていただいた事。
記念祝賀会
そこでは、あんなモノや・・
あんなモノ
こんなモノも。
こんなモノ
よしっ!! 頑張ったな、自分!!
そして今日・・
先生方もたいへんお疲れさまでした。
(A先生)いやぁ、よく頑張ってくれた。君のお陰だ。
ありがとうございます!成し遂げました!ここまで頑張って来れたのも先生方の多大な・・
(A先生)悪いんだけど、次のプロジェクトも有るんでよろしく!
ええ~ 終りじゃないのぉ!? ヾ( ̄0 ̄; )ノ
(ToT) (ToT) (ToT) (ToT) (ToT)
あ~あ、JUNもまたカンボジアに行かされるというし、俺たちなかなか悠々自適の日々は遠そうだな・・。
(ちゃんちゃん!)
<<THE END>>
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